・
歩道橋から見上げる赤黒い空は、驚くほど近かった。
「……じゃまなの」
私のすぐ横を通り抜けていく小さな疾風。
すれ違い様に聞こえた声は、可愛らしい女の子のもの。
なのに疾風、そうとしか形容できないぐらいの速さでその影は私のすぐ横を薙いでいった。猛然と駆け抜けていくその後ろ姿は、まるで血の色に染まる空へ挑んでいくかのよう。
「嘘……」
だけど私は息を呑む。
その姿に頼もしさなんて感じない。それを私を助けてくれる正義の味方だなんて微塵も思えない。
だって人間じゃない、そう思わざるを得ないんだ。私の視界には一足で歩道橋の欄干に右足を掛け、五メートルはあろう眼下へと身を踊らせる銀髪の少女。少なくとも私のようなうら若くて可愛くて美しくて、えっと、あと可愛くて、そんな花も恥じらう乙女の普通この上ない17年ちょっとに渡る短い人生の中で、年端も行かない童女がそんなアクション映画顔負けな動きをするなんていう常識はない。
そのはずなのに、それは紛れもなく現実で。
「アキラぁ!」
彼女がトトトと可愛らしく走り寄る先に立つ男の子は私の同級生のはずで。
「……ヨヨ、来い」
彼らが対峙しているのは人の世には有り得ない目を見張るぐらい巨大な怪物で。
「行くぞ」
「りょーかいなの」
それなのに一瞬。彼らは一瞬でその怪物を血祭りに上げていた。
視界が明滅する。意味がわからない、わけがわからない。ここは21世紀の日本で、これは間違いなく現実の出来事なのに、理解が全く及ばない。人間を軽く捻り潰せそうな巨大な怪物と、それに敢然と立ち向かう少年と童女。そんなSFめいた光景が現実なのだと、私は信じることができなかった。
誰よりもそういうことを、何よりもそうしたことを望んできたはずなのに、目の前で起きた出来事を私は無意識の内に否定してしまっていたのね。
「生きてたか、パパラッチ」
気付けば彼が、化け物を一撃で粉砕した男が目の前に立っている。
「さて……何号だったっけか、お前」
どうやってこんな一瞬で私のへたり込む歩道橋に登ってきたのか、そもそも彼が手にする身の丈ほどもある武器は何なのか、そして先程の女の子はどこに行ったのか。
正直、全てがどうでも良かった。
「なんでここにいるのかは知らねーが……」
だから私は、彼の持つ武器がゆっくりと振り上げられるのをぼんやりと見つめていた。
「……こーいうことだ」
鈍色に輝く剣、振り下ろされたそれは程無く私の額を割るらしい。
超絶美少女新聞記者、白昼堂々暗殺されるとか記事になるのかな。
ちょっと待った、私が死んだら来月の学内新聞は誰が書くわけ!?
ああ、意識が目の前の全てから私を置いて逃げようとしているわ。
さっきまで私、今日の晩ご飯は何にするつもりだったっけか──?
『Hypocrite』
第1話:夕焼け空に君は舞う
「……つまんない」
遠くから運動部の掛け声が響いてくる部室で、グテーッと両手を投げ出してそんなことを呟いた。
「部長の人生がつまらなかったら、この学校じゃ九割以上の人間がつまらない日々を送っていることになるんじゃねーのか?」
私の方へ顔を向けることもなく、キーボードを叩きながら正面の男子は言う。キラリと光る眼鏡はそれだけで理知的だ。
「……キミは私に喧嘩を売ってるのかな?」
ジロリと目を向けてやると、彼は「まさか」と肩を竦めてみせる。こーいうとこ、妹とは正反対よね。
「僕は残りの一割に決まってんだろ、部長を見ているだけで楽しいんだからよ」
「……ほ、誉めても何も出ないんだからねっ」
「別に誉めてないけどな」
「ハァーッ!?」
年度が変わったばかりの四月、当然のように我が新聞部に入部希望者はない。
いよいよ音に聞こえた受験生、三年生になった部長であるこの私、超絶美少女新聞記者こと大江戸智代(おおえど ちよ)は数少ない非幽霊部員であり、頼りになる相棒の一人でもある日比谷天馬(ひびや てんま)君と駄弁るだけの怠惰な時間を過ごしている。そろそろ記事を挙げなければ来週頭の掲示に間に合わないのだけれど、私はどうにもやる気が出ないでいた。
何というか、記事にするようなネタがないのよ。私の周りの世界は悲しいぐらい平和で平穏で平凡だった。
「ネタが無かったら自分からネタになるのが部長じゃないのか?」
「……もう私も歳なの、馬鹿騒ぎは引退させて欲しいんだ……」
ああ、何だか凄くお昼寝したい気分。お昼のカツサンドはおいしかったなぁ……。
「清々しいぐらいに堕落してるな」
「何とでも言うがいい、魔王である我はもう疲れたのだぁ~」
冷ややかな中の視線を無視して再びドテッと机に上半身を投げ出す私。
日の光を全身で浴びていると心まで洗われていくかのよう。光合成を行う植物の気持ちがわかる。かのドラキュラ伯爵は日光に弱いと言うけれど、こんな気持ちいいものを浴びることを許されないなんてどれだけ不幸なんだろう。如何に不死者と言ったって根っこの部分は人間なんだから、太陽の下で生きられないなんて最大の不幸ではないのかしらん?
「そんなグータラな生活してると、そろそろウエストがバストを超えるぜ部長」
「……は?」
日比谷君、いや日比谷の野郎が唐突に呟いた言葉にムクリと起き上がるウエスト、じゃなくて私。
「オマエ今何つった」
「そろそろ美しい直線を描いていた筒が膨張して花瓶になるんじゃないかなと」
殴っていいかな。
「小町から聞いたぜ部長、噂じゃあまりの重さでこの間の身体測定で体重計を壊したとか」
「適当なこと言うなァ! 私の華奢で可憐なイメージが崩れるでしょうが!」
いや壊したのは事実だけど。……重さでじゃないよ? ホントだよ?
「……というわけで、ダイエットの為にも校内をひとっ走りしてネタでも探してきてくれ」
「イヤよ」
「即答かよ」
その「もう呆れて二の句も告げないが部長だし敬意は払っとくか」みたいな顔やめろ。
「そもそも部長、運動神経は悪くないだろ。空気抵抗無いんだし」
「殺すぞ」
「おっと訂正、余分な重りが無いと言うべきだったか?」
同じじゃないのよ。
「体育の成績はいつも5だろ?」
10段階でね。
「まあキミに言われるまでもなく、私だって元から運動すること自体は好きなのよ。バスケもサッカーもバレーも嫌いじゃないし……得意かどうかはともかく、むしろ好きと言っても過言ではないまであるわね」
「だったら」
「ランニングが嫌いだから。疲れるだけじゃない、あんなの」
「清々しいクズだな」
にべもない。二年前に出会った時から彼は変わらない。
言いたいことを我慢することなく言い合える関係って奴は貴重だ。私の場合、とにかく黙っているということができないタチだから、暴言も吐くけれど曲がりなりにも私の言葉を全て受け止めてくれる日比谷君の性分はとても好ましく思える。実務に関しても優秀だし、彼が新聞部に入部してくれたことはこの二年間で最も喜ぶべきことかもしれないと思う。
日比谷君って、いい奴だ。気恥ずかしくて言えてないことだけど、本当にそう思う。
「そろそろ行ってきたらどうだよ、時間は無駄にできないんだぞ」
「は?」
不覚にもちょっとだけ火照った顔を押さえて私が顔を上げると、日比谷君は冷めた表情で片手に持った手書きのメモをヒラヒラさせていた。どこかのメールアドレスと見たことのない名前が走り書きされているみたいだけど。それにしても相変わらずキャラに合わないとんでもない悪筆、ちょっと硬筆でも習ったらどお?
で、何これ。
「タレコミだよ、本日中に調査並びに取材を頼むわ。部長のクラスの隣だから場所はわかんだろ」
「ちょうさ……」
なんかイマイチ漢字が浮かばなかった。
今から? もう空が真っ赤だよ? それにここ、旧校舎だよ? 私のクラスまで小走りで10分近くかかるんだよ? そもそも私、あと少しお昼寝したら帰るつもりなんだよ?
「日比谷君、君には確か偉大な妹さんがいたわよね」
「あのバカは偉大すぎて今日から追試で無理だな」
私にとってもう一人の相棒にして日比谷君の双子の妹、日比谷小町(ひびや こまち)の名前を出しても彼はにべもない。
しかも“今日から”という辺り、今日で受かるとは微塵も信じていない辺りが酷い。如何にも優等生といった風貌の日比谷君と違い、双子の妹である日比谷さんはスポーツ万能な代償に学業が悲惨だ。よくもまあ双子の兄妹でここまで正反対になれるものだと思う。いや実を言ったら、私もギリギリで追試を免れた口なんだけども。
「さっさと行けよな。記者は足で稼ぐ者、部長の口癖だろ」
「………………」
クソァ!!
「おう、マイスイートエンジェル」
「……は?」
教室に足を踏み入れた瞬間、背筋がゾッとする甘い声を掛けられた。
「ああ、有楽町君。……アイシテルワ」
きっと今の私は最高にドン引きした顔をしていると思う。
「珍しいな、俺に会いに来たのか」
「……部活は?」
ジャージを腰に巻いて窓際の机に座っている有楽町幸次(ゆうらくちょう こうじ)君。
自称サッカー部のエースでホープらしい彼は、一年生の時の私のクラスメイトだけど、何と言うか甘ったるい猫撫で声で迫ってくるので正直苦手な相手だ。そんな声に違わず顔立ちも所謂甘いマスクという奴なので、女子からの人気も高いらしい。そんな相手に曲がりなりにも声を掛けてもらえるのだから、女として自惚れてもいいのかもしれないけど。
まあ超絶美少女たる私なので当然と言えなくもない。笑った奴は許さん。
「最後にお前と顔を合わせたのはいつだったか……ああ、あの冬の日か」
「……は?」
「そうだな、俺達の子も無事に生まれていたら、今頃は1歳になっていたのだろうな……」
「勝手に人の初めてを奪わないで頂きたい、いや奪うんじゃねえ」
しかも無駄に重いし、断じて体重ではなく設定が。
「しかし珍しいなマイエン、お前が我がクラスに来るとは」
略すなスルーするなお前って言うな不適切よ。
あとマイエンって何よ、どっかのハンカチ王子を思い出すじゃない。
「……ちょっとね」
「来月のスポーツ大会に向けた偵察か?」
ああ、そんなものもあったかも。
校内スポーツ大会。生徒全員がバスケ、卓球、男子限定のサッカーと野球、女子限定のバレーとソフトボールのいずれかに出場し、クラス対抗で頂点を競う一学期で最高に憂鬱な日。それこそ有楽町君のようにその日に全てを懸けているような人がいることも知っているけれど、インドア派の私にとっては取るに足らないイベント、というか恐怖すら感じるイベントだった。なんでゴールデンウィーク明けのダラけきった気分を見るも無惨に吹き飛ばされなければいけないのか。
それにしても去年は私、何に出たんだったかな……?
「だが残念だったな、今年のB組は無敵だぜ。去年はA組に遅れを取ったが今年は負けんぞ」
「……へえ」
正直、あんまり興味ない。むしろ去年自分のクラスが優勝したことも忘れていたわけだし。
「オイオイ、マイエンはそれでも新聞記者か?」
マイエン言うな。
「なら言わせてもらいますけどね有楽町君、この際ですから」
「何故敬語」
「スポーツ大会なぞリア充どもがこぞって競い合い絡み合う負のイベントでしょう。スポーツ万能な輩は楽しい一日を過ごし、それでいて我らは『クラスの〇〇使えなかったよな~、サッカー出るなよな』だのなんだのと後ろ指を指されて過ごす羽目になるのです。単なる同級生、スポーツが得意かどうかだけで明暗がハッキリ別れてしまう、これが許されますか? 否! 我ら庶民の立場がありません!」
「……大江戸さんは頭おかしいんですかね」
何故敬語。
「まあ冗談はそれぐらいにしてね、ちょうど良かったわ有楽町君」
「冗談かよ」
「人探してるんだ、このクラスの」
そもそも来た目的はそれだったし。
「編入生で……えっと、うわっ、アイツ字汚過ぎでしょ……」
日比谷君から貰ったメモを内ポケットから取り出して読む。……読めるか! こんな汚い字!
「千代田公(ちよだ あきら)君って子なんだけど」
『変な名前ね』
名前を言われて開口一番そういった私に、日比谷君は露骨に呆れた顔をした。
『それでも部長は本当に新聞記者かよ?』
失礼な。
名豪高校新聞部部長、それが私の名目上の役職。超絶美少女という二つ名は別として、新聞部なんて大仰な名を名乗ってはいるけど、幽霊部員の存在で辛うじて部としての体裁を保っているだけで、実際に部員として活動できているのは私と日比谷君及び日比谷さん、その三人しかいない。だから他の学校の新聞部みたく毎週掲示板に校内新聞を張り出すことなんてできるわけもなく、気が向いた時に私または日比谷君または日比谷さんの誰かが面白いと感じたニュースがない限りは動くこともない。ていうか、日比谷さんはノリで動くから制御できないし、日比谷君はパソコンの前から動こうともしないから、結局のところまともに動くのは私だけなんだけどさ。
おかしいな、新聞部の部長って言ったら編集長と同義だと思うんだけど私の方が下っ端っぽくない?
『本年度から3年B組に来た編入生だな』
『へんにゅうせい……この時期に?』
仮にも私達、受験生なんだけど。親の都合か何かかしらん?
『……部長も昨今、話題になってる連続行方不明事件は知ってるよな』
『23区の方で起きたアレよね』
『アレってのは頼りないな……部長は本当に新聞記者かよ?』
その台詞、今さっきも聞いたんだけど、侮辱は許さないわよ。
一応ニュースは欠かさず見るようにしているし、新聞も必ず読む時間を朝食の後に作っている。だから日比谷君の言う行方不明事件のことは知っているし、むしろ印象的だったのでよく覚えている。だけれども、その事件の詳細は判然としないと言わざるを得なかった。半年前のクリスマス直前、東京都の某高校に通う女子生徒が行方不明になった。交友関係を隅々まで調べられ、それを頼りに捜査が進められたらしいけど、警察は手がかりすら掴むことができないまま年が明けたらしい。
それだけなら何の変哲もないありふれた事件だろう。だから問題はここからなわけで。
『……で、その事件がどうしたわけ?』
三学期が始まると共に二人目、三人目と行方不明者が増えていった。学年もクラスもバラバラで行方不明者同士に直接の面識はない。年度が変わる頃、気付けば十人を超えていた――その中には教師も含まれていたという話だけど――行方不明者の共通項は同じ高校の生徒または教師であること、彼らは一切の痕跡を残さず消え去ってしまったらしい。……いや、なんか靴が片方残っていた人もいるみたいなことニュースで見たかな?
『その行方不明者の何人か、全部女子生徒らしいんだが、それと付き合っていた男がいたって話だ』
『……ほう? それはつまり?』
超絶美少女新聞記者たる私の眉がピクッと上がる。なんだか面白そうな話!
『容疑者Xとでも言うべきか? その男子生徒は三月、つまり年度末を以って転校している』
なんか献身しそうなコードね。
『読めた、それで今月に編入してきた……』
『やっと脳天気な部長でも飲み込めたようだなぁ』
『うるせえ!!』
「千代田? マイエン、アイツに興味があるのか?」
まあ無いと言えば嘘になるので頷いておく。
有楽町君曰く、千代田公という編入生がどういった人間かはこの一月の間、殆ど掴めていないのが実状だという。なかなかの長身に加えてガタイも良く、所謂喧嘩慣れしていそうな外見は一応、本当に一応進学校という体裁の我が校において目立つらしく、女子生徒からは怖がられたりはしているものの、現時点で別段暴れたとか他校の生徒との間や近隣で問題を起こしたという話もない。授業で当てられれば真面目に答えるし、そういった風体の生徒にありがちな窓際の最後列で常に寝ているとか、そんなお決まりすら無視しているらしい。そもそも席は廊下側の二列目で、大柄な生徒がいればかなり目立つ位置だ。
「スポーツやってそうだとは思うけどな、もう三年だし部活は入らないんだってよ。勿体ない」
それが千代田某、日比谷君の言葉を借りれば容疑者Xの実態だった。
ちょっと萎えている、正直なところそれが私の本音だ。
現時点で千代田公が目立っているのは編入生であること、それと大柄であることの二点のみである。そもそも大柄だから何だという話で、それで言ったら超絶美少女の私だって女子の中ならかなり長身の方だ。だけど高校生の外見なんて千差万別、見た目だけでいつまでも目立ち続けることなんて無いだろうし、編入生という肩書きもいずれは風化する。その時が来ても尚、このクラスの中で浮くだけの特徴は、有楽町君の話を聞く限りだと千代田某には無いように思えた。
四月に編入した高校三年生なんて無数にいる。そもそも都内から都内へ編入したかだってわからないんだ。
(空振りかな、これ)
そう思って有楽町君との会話を切り上げ、さっさと部室に戻ろうと思ったところ。
「あれ? 部長じゃん、おはー」
超絶美少女にして長身の私より更に長身の女生徒が教室に入ってきた。……180cmあるのかな彼女。
「いや日比谷さん、もう夕焼け空なんだけど……」
「そっかそっか。んで、部長はウチのクラスで何してんの? 有楽町と逢い引きだったら引くわー」
「フッ、よくぞ聞いた日比谷妹。マイエンはこれから俺と」
「黙って。日比谷さんは追試だって聞いたけど」
兄とそっくりな端整な顔で、けれど兄が絶対しない朗らかな表情で、日比谷小町さんは最後尾の机に腰掛けて私を見た。
「天馬の奴の言うこと真に受けちゃダメだよ-? ウチ、こう見えて数学は得意なんだよねー」
「三日前は得意科目英語じゃなかった?」
「……んで、部長はウチのクラスで何してんの?」
今に始まったことじゃないのでツッコんでもキリが無いか。
短いスカートから伸びる長い足でパタパタと前の椅子の背を叩いている日比谷さん。小町なる名前に反してボーイッシュな彼女は、その長身も含めて兄である日比谷君とそっくりで、なんかもうギャグなんじゃないかってぐらいコイツら絶対双子だろという事実をこちらに実感させてくる。性格も得意分野も正反対だけど、見た目だけはもう完璧に双子だ。
ふむ。日比谷さんを女子にカウントするのは生物学の敗北な気もするけど、女子側の意見も聞いてみるべきかしらん?
「編入生の千代田君っているでしょ? 彼、日比谷さんから見てどうなのかな」
興味無いとかまだわからないとか、そんな答えだろうと予測して投げかけた質問。
なのに。
日比谷さんはその端整な顔を露骨に顰めてみせた。
「……部長、アイツに興味あんの?」
兄の日比谷君にそっくりな表情。今し方聞いたその編入生の名前が心底嫌だという顔だった。
『編入してきたばかりなのにもうクラスの女子皆に声かけてる』
日比谷さんのくれた情報。後ろで有楽町君が憤慨していたけどそれは無視するとして。
自分も手を出されたのかを日比谷さんは語らなかったし、私も聞き出すつもりは無かった。人類皆兄弟と言わんばかりの日比谷さんが見せたあの顔を見れば十分だったし、それを見れば私だってふざけたことを言えるわけがない。
それに繋がるものがあるんだ。
日比谷君がくれた情報、行方不明者の女子生徒数人と付き合っていたとされる男子生徒。
日比谷さんが言う事実、編入数週間でクラスの女子皆にちょっかいを出している編入生。
元々面白そうだと思って首を突っ込んだ案件、とはいえ完全に超絶美少女新聞記者としての勘だけど、この繋がりはきっと意味がある。
容疑者Xは千代田公だ、そんな確信を私は抱いて帰路に就いた。
同じ都内と言っても名豪高校は寂れた商店街の中にある極普通の私立高校で、最寄りの駅まではシャッターが閉まっている店の方が多いんじゃないかっていうレベルの商店街を抜ける必要がある。近隣にゾンビパニックが起きた時に立て籠もれそうなショッピングモールができたばかりということもあって、畳まれる店はどんどん増えていく見通しだって聞いた。
それらを横目で見つつ駅へと向かう。午後七時前、往来する人なんて疎らどころか0に等しい夕焼け空の駅前の歩道橋を歩く私は、まるで外界から切り離されてポツンと世界に自分だけが存在しているかのよう。駅の向こう側に沈む太陽、燃えるように真っ赤に染まった世界は毎日見ているにも関わらず、それだけでとても幻想的だ。
その中にあって、今晩のご飯は何にしようかなんて考えている自分がおかしかった。
なのに。
一瞬、その真紅の世界に銀色の光が射して。
「──────」
擦れ違った。……何と?
囁かれた。……何て?
思わず振り返った私の視界には私以外無人の歩道橋。
それなのに、リンと音が聞こえた気がしたんだ。
耳ではなく体の中心に響く軽やかな鈴の音。
リン、リン、リン。
呼ばれるように。
誘われるように。
「何……?」
私は登ったばかりの歩道橋を降りて商店街へと足を戻していく。
きっと純粋な好奇心だ。新聞記者である私が己の興味以外の何かに強制されるなんてこと有り得ない。
シャン、シャン、シャン。
胸の内で徐々に大きくなっていく鈴の音は、自然と進む私の足の行き先が近付いていることを示しているらしい。
でも目的地ってどこなの?
人が消えている。疎らなんてレベルじゃない、私以外の全ての人が周囲から消えている。そして私はその異質さに気付かないまま私ではない何かに引っ張られるように、誰もいなくなった商店街へ足を踏み入れようとしている。
ギャン! ギャン! ギャン!
鈴の音なんかじゃない。それはもう悲鳴だ。心に訴えかけるような切なくも苦しい叫び。私が知覚できなくなった私はそれが何であるかも理解できないまま、けれどそれの望むままに商店街の中に足を踏み入れようとして。
ドン。
そんな音を聞いた。
・
“奴ら”は女に憑きやすい、そう聞いたから女子生徒の多いこの高校を選んだ。
それ以前にかつて取り逃がした“奴ら”の行動規則から推測しても、恐らくこのエリアに現れるだろうことは容易に予測できた。組織は“奴ら”の存在が明るみに出ることを恐れているし、何より質も練度も段違いと自負してきた東京本部において構成員が二人も討ち果たされた、この事実が知られれば組織内の東京本部の立場も危うくなろう。早急な対策と処理が必要だった。
自分は幼い頃から“奴ら”を感知できた。何故できたのかは知らない。できてしまっただけのこと。
父親は平凡だが立派に働くサラリーマン、母親は気立ての良く優しい専業主婦。まさにありふれた一般家庭に生まれた俺に出生の秘密などなく、俺がどうしてそんな能力を持ったのかはわからない。だけど小学校に上がるか上がらないかの頃の俺が組織に引き取られる時、俺の前で初めて眼鏡を取って父は言った。
『アキラの力は、きっと皆の役に立つんだね──』
それが俺の聞いた最後の父の言葉だった。母共々、父は“奴ら”の犠牲になった。
後悔なんて。
憎悪なんて。
そんなものはない。父の言葉通り俺の力が皆の役に立つならいい、そう思って戦うことを決めた。けれど実際には俺と同じような能力を持つ奴らはごまんと生まれてきていて、結局のところ俺はその中では平凡な村人その3程度でしか無かった。
東京本部に呼ばれたのは、そんな折のことだった。
教師として潜入させたベテラン構成員が二人、不覚を取って“奴ら”に討たれたという。故にこの事態に回せる人材が無く若輩の俺に話が回ってきたそうだ。
要は時間稼ぎだ。東京本部は事態を甘く見て戦力の逐次投入という愚策を講じた結果、いたずらに犠牲者を増やすこととなった。恐らく他支部からの誹りは免れまい。本来ならこれ以上の犠牲者を出さぬよう即刻動くべき他の構成員は、他支部へ情報を漏洩させぬよう奔走している。それが済むまでの間、若輩で平々凡々な俺に現地へ赴き“奴ら”の相手をしろという。
(死んだな、俺)
それが半年前の俺、千代田公(ちよだ あきら)の所感である。
“奴ら”。そう呼ばれる生物達が世に出たのは、前世紀の末だったという。
だがその時点で“奴ら”は実態を伴う存在ではなく、コンピュータ上に存在する微少なデータでしかなかったらしい。機械に疎い俺はよくわからないが、ワクチンとかウィルスとかそういうものだろうか?
やがて“奴ら”は電子の世界で繁栄し、多種多様な“奴ら”が生まれた。それを先人達は放置したのかと言えば答えは否で、むしろその存在を利用しようとする者が数多現れた。所謂ハッカーと呼ばれた愚か者達は“奴ら”を他のコンピュータへの攻撃プログラムへと改造しようとした。
そんな中、事は起きた。
全くの偶然の産物だったのかもしれない。
はたまたハッカー達の研究の成果だったのかもしれない。
“奴ら”は電子生命体でありながら、操る人間の精神と同調する性質を持っていた。
故に自らを操ろうとしたハッカー、他のコンピュータへの攻撃、即ち攻撃衝動を持っていた男の精神と同調、初めて浴びせられる人間という膨大なデータとリンクを果たした“奴ら”の内の一体のデータが、あろうことかハッカーの精神に逆流してその肉体を強奪したのだ。
西暦1995年。東京都練馬区光ヶ丘。“奴ら”は初めて人の世に実態を伴って姿を現した。
黄色い体躯を持つ小竜から突如として橙色の巨竜へと変貌した“奴ら”第1号。
愚かなハッカーの肉体と同調を果たして、その肉体を依り代として現れたそれを、後に皆はこう呼ぶ。
人と同調(agree)する者。
アグモン。
組織ができたのは所謂光ヶ丘事件の直後のことだったらしい。
“奴ら”が人間と同調する要因は、光ヶ丘事件から四半世紀が経つ今でもわかっていない。わかっているのは光ヶ丘事件以後、世界各地で同一の事例が数多起き始めたということだけだった。世界各地に組織の支部が置かれ、早急に“奴ら”への対策が講じられる体制が整った。後手に回るのが常の体制ではあるが、“奴ら”が世間に知られる前にその芽を摘むことだけは徹底された。その中でも光ヶ丘事件以降、“奴ら”を一体も取り逃がさず、また一人の殉職者も出していない東京本部はそれを是としてきた。
その誉れが地に墜ちた。此度の女子高生連続行方不明事件は、全て“奴ら”の手によるものだ。
都内の某高校の女子生徒が“奴ら”と同調した。その知らせを受けた東京本部は、即座に一人の女性隊員を非常勤講師の立場で送り込んだ。己の実力を鼻にかける嫌な女だったが、それでも本部内では準エースの立場にあった存在だ。だからその彼女が返り討ちに遭ったとの報が届いた時の本部の動揺は筆舌に尽くし難い。何しろ彼女は光ヶ丘事件で現れたアグモンと同種、黄色い小竜から変貌した橙色の巨竜──今ではグレイト級、俗にグレイモン級と呼ばれる──を討ち果たしたこともある女だったのだ。
原初にして頂点と呼ばれるグレイモン級をも上回る存在が現れたのかとどよめく本部の幹部達だったが、その事実を認められず焦って投入した本部のNo.3、これもまたプライドの高そうな女性だったが彼女も程なくして討たれた。
No.2とNo.3を同時に失い、しかも未だ敵の正体すら掴めていない。やがて本部はその失態を隠すべく各所へ火消しに走ることとなり、その間現地には足止め役として若輩の男が回されることとなった。女子高生を相手に女の教師を送り込んで二度失敗したのだから、男の生徒なら同じテツは踏まないだろう。そんな根拠の無い理屈が決め手だったらしい。
この俺、千代田公が高校生をやっているのは、概ねそんな理由からだった。
しなやかな猫。現地で確認した“奴ら”を、俺はそう形容した。
前任者達が一切の引継も無く殉職してしまった以上、その高校に潜む“奴ら”とは自分なりのやり方で対峙しなければなるまい。そう思い編入直後から同学年の女子に片っ端から声をかけていった俺は、ある放課後の体育館裏で遂に“奴ら”と対面することとなる。
そいつ、同じクラスの何たらとかいう女子生徒だった“奴ら”は、人間の皮を脱ぎ捨てて獲物に喰らい付いていた。うつ伏せに倒れた友人のこれまた何たらの背中に馬乗りになりつつ、首筋に牙を突き立てた様は中世の吸血鬼のようだったが、次の瞬間俺は度肝を抜かれた。
『今度は男かい?』
“奴ら”は人語を解さない。それが絶対の不文律だったはずだ。
それなのに目の前の猫のような人のような“奴ら”は、明確に俺を見て明確に俺を認識して明確に俺に語りかけた。姿形は人間とそう変わらず、言語によるコミュニケイトが可能かもしれないというのに、俺はそれまで対峙してきたどんな“奴ら”──尤も、俺は黄色い方のアグモン級しか相手にしたことがない──よりも異質な存在に見えた。
『アンタの組織に言っときな。寄越した二人の女は美味かったよぉ?』
相手にもされていないと知る。事実、立ち尽くす俺の前でそいつは食事をやめなかった。
首に牙を刺されて吸われていた少女の姿が蕩けるように消えていく。吸っているのは血ではなく生命力、もしくは存在そのものなのか、友人の姿をした怪物に襲われて息絶えた女生徒の体は、制服すら残さず完全に消滅した。
『男は不味いから要らないんだよ。殺しゃしないからさっさと帰んな』
支給された銃を知らず知らずの内に俺は構えていたが、そいつは俺が撃つことすらできないことを知っていた。
元の女子生徒の姿に戻って悠々と立ち去る猫もどきを、俺は見送ることしかできなかったのだ。
俺にできたことは結局、いずれアイツが狙う女子生徒を何とか守ろうとすることだけだった。
そう、守ろうとすることだけだ。守れた者なんて一人もいない。
『アンタも頑張るねえ、イヒヒッ』
嘲り笑う声。今日もまた一人、守れなかった少女の姿を俺に見せ付けに奴がやってくる。
奴の依り代となった女生徒の交友関係を調べ、その友人達を何とか依り代から引き離そうとした。一人ずつ必死に頼み込んで一緒に帰る許可を貰ったりもした。しかし俺の体は一つしかないわけで、一度に守れる者がいるとすれば一人しかおらず、その度に別の友人が襲われ、その消滅寸前の亡骸を抱いて奴は俺の前に姿を現すのだ。
気が狂いそうだ。いや実際に気が狂っていたのかもしれない。
『千代田君って変わった人だね』
そう言って微笑んでいた最後の一人、俺からすれば最初に声をかけた少女、俺に人生で初めて『異性と一緒に下校する』という経験をさせてくれた彼女の死体を抱き竦めながら早朝の校門で奴が待っていた時、俺は機密とか周囲の被害とかそういった全てを忘れて銃を乱射していた。
俺の放った銃弾は彼女の死体を蜂の巣にし、されど奴の肉体には1ミリも刺さることなく。
『女を穴だらけにするたぁ酷い男もいたもんだねぇ』
俺を見下す猫の声。蜂の巣と化した死体をも丹念に味わい、その生命の全てをしっかりと咀嚼して。
『たっぷり楽しんだし痛快なアンタの顔も見飽きた。この学校はこれで最後にするかねぇ』
猫が人の姿に戻る。長い黒髪を持つ妖艶な女子生徒は、茶目っ気たっぷりといった顔でオレを見返して笑った。その姿は学業優秀、容姿端麗と学内でも著名な才女そのものであったが、依り代の意識などとうに無く、それはただ元の少女の外見を模しただけの偽物だ。要するに猫かぶりならぬ人かぶり。その朗らかな笑顔も艶やかな長髪もしなやかな手足も、全て人の皮を被った紛い物。相互理解など有り得ぬ化け物でしかない。
『アタシは西へ行くよ。アンタはどうする? イヒヒッ』
その言葉通り、奴による被害はこれで最後だった。
俺の銃撃で脱げた革靴の一足のみを遺した彼女で最後だった。
だから決めた。
どうなろうと俺は奴を追う。
浅草馬子(あさくさ まこ)、あの猫の依り代。
奴を仕留めるまで、俺は死んでも死にきれない。
・
「最早笑うしかありませんな。行方不明者十名に殉職者二名、本部始まって以来の大失態だ」
「……致し方あるまい。まさか魔王が現れるなど想定の埒外にも程がある」
「三田様もやはりあれが魔王であると?」
「そうとしか考えられぬよ。千代田隊員の報告によればARMSが一切効果が見られぬとあった。通常のレベルⅣでは有り得ぬ硬度となれば、あれが究極なる者(アブソリュート)であることは必然」
「さてさて、困りましたな。我々はまだあの世界の頂点と相対する準備ができていない。現時点では無駄とわかっていても駆除に動く他無いのでしょう?」
「千代田隊員は諦めぬだろう。本部としてもこれ以上の殉職者を出さぬことが最優先となれば、彼奴の標的にならぬ男……それに因縁を鑑みれば千代田隊員が適任であることは間違いない」
「三田様ともあろう御方が、親友の息子さんに酷いことをされますな」
「……手は用意してある」
「ZERO-ARMS……ですか。だがあれは」
「手は、用意してあると言った」
・
「あれ? 私……」
駅に向かってたはずだけど、いつの間に歩道橋降りたんだっけ?
それに今聞いたドンという大きな音は?
周囲を見渡す。駅を目の前にした歩道橋の傍、商店街の入口は相変わらず寂れたもので──待って、それにしたって人っ子一人いないっておかしくない?──ボロボロになった“名豪通り商店街”の看板が夕日を反射してギラギラと眩しい。既に七時近いってのに照り付ける夕日は私の羽織るブレザーの肩口もジリジリと焼いていくかのようだった。
ドン。もう一度大きな音。
映画でよく聞く銃撃のような音。
「まさか……ね」
そう言いつつ足を踏み入れた商店街、共にシャッターの降りた本屋と八百屋の間の細い路地で私は見た。
一人の女の子が蹲っている。長い髪で顔は見えなかったけど、制服からしてウチの生徒だとわかる。そしてその少女を見下ろすように立っている男の子もまた、ウチの生徒であることは間違いなかった。
その光景はどう見ても、男が女を暴力で支配しているようにしか見えなくて。
「ちょ、アンタ何して──」
なんか何も考えられず直感的に飛び出してしまった私は、振り向いた男子生徒の右手に握られているものに気付いてしまう。
(拳銃……!? え、いやマジ……?)
迂闊だったと思った時にはもう遅い。既に男子生徒は私を認識していたし、駆け寄る私自身の足だって止められない。
蹲る少女の脇腹、ブレザーが血で滲んでいる。ああリアルで見る血ってアニメと違って真っ赤じゃなくて黒々としたものなんだって他人事のように思っちゃった。超絶美少女新聞記者として慣らした私だって実際の銃撃の現場を見たのは初めてだったから、後になって思えば全く冷静でなかったのかもしれない。
「なんで……」
男子生徒は銃口をこっちに向けたりはしない。ただ信じられないと言った顔で私を見返している。
だから捲し立てるしかないと思った。……いやコイツ身長たっか!
「アンタ何やってんのよ!?」
可能な限り居丈高。ペースを握っているのはこっちだと突き付けるように。
だけど私の目は男子生徒が握っている拳銃から離せない。その銃口が跳ね上げられて私に向けられた途端、私の優位は崩れるのは確定なんだ。両腕をダラリと下げて立ち尽くしている彼に、どうやらそのつもりが無さそうなのは僥倖ではあったけれど、それでも油断なく背中を見せないよう後退りしながら蹲っている女子生徒へ近寄っていく。恐怖と言ってもいい緊張で、私の足首がガクガク震えてるのはバレてるかしらん?
「……ばっ、どけ!」
強い言葉だけど男子生徒は手を挙げない。だから私だって怯まない。
190cm近いだろう長身、けれどもどこか焦点の合っていないような色素の薄い瞳が印象的な男子生徒は、首元の校章の色からして私と同級生らしいけどその顔に見覚えは無かった。
得心する。この男が件の千代田某だと。
「何やってんのよ、アンタ……!」
もう一度問う。千代田某は動かず小さく「どけ」と言うだけだ。
「アンタ、相当な女好きらしいけど……これは良くないんじゃないの?」
「失礼なことを言うな……大体、お前誰だよ」
「ハァーッ!? 女好きの癖に私の名前知らないってぇの!?」
屈辱、何たる屈辱。それだけで顔が真っ赤になりそう。
「待てよ……どっかで見たな、クラスの……日比谷と一緒に」
「そう、それよそれ!」
「新聞部のパパラッチ2号か」
「2号じゃねえってえの! せめて1号でしょ! 私は部長よ!」
「どうでもいい、とにかくどけ。そいつは──」
「どうでも良くねェーッ!」
叫び散らしつつ、千代田某の制止を無視して私は女子生徒を抱き起こそうとする。確か彼女は有楽町君や日比谷さんと同じB組の生徒、どうして千代田某が拳銃など持ち出したのかは知らないけど、きっと路地裏に連れ込まれて乱暴されて──
「えっ……」
息を呑む。
私が抱き起こした女の子はB組の委員長。
理知的で真面目な生徒だと評判な彼女の顔は。
ドロドロに崩れて。皮と肉の全てが濁ったヘドロに塗れて。
それでも人ではなくなった目だけが、ギラリと輝く怪物の目だけが。
迂闊に近付いた私(えもの)の姿をしっかりと捉えていた。
・
どうなってる! 何が起きたらこうなる!
「なんで……」
人払いは済んでいるはずだった。認めたくないが、あの“人かぶり”との幾度かの対峙を経てそうした手際だけは磨かれた。今回は上から与えられた物騒な新装備のテストも兼ねていたから、殊更万全を期して事を進めたつもりだ。
“奴ら”は己より下位種の“奴ら”を呼ぶという説を鑑みれば、グレイモン級を上回るだろう“人かぶり”の行き先にグレイモン級が現れるのは必然。その定説通り、編入したこの高校でも実際に“奴ら”に同調した女子生徒を俺は難なく発見していた。目撃情報も合わせ、必ず“人かぶり”はこの近隣に潜んでいると確信できる。
だから前哨戦。この女子生徒が完全に同調する前に始末する、その為に他の女子生徒からは敢えて嫌われ、標的のみと対峙できる状況を作ったはずなのに。
「アンタ何やってんのよ!?」
そこに邪魔が入った。声高々に現れた乱入者は、どこか俺が救えなかった彼女に似ていた。
きっと違う、きっと違う。彼女は“人かぶり”に殺されたし、その遺体はよりによって俺が自らの手で蜂の巣にした。銀座大河(ぎんざ たいが)を俺は守ることができなかった上、その骸さえ辱めた。だから一瞬だけ彼女の姿が被った目の前の女が、銀座大河であるはずがない。
目つきの悪い女だった。如何にも今という世界を元気溌剌と生きていそうな女だった。
「……ばっ、どけ!」
咄嗟に叫ぶが現れた女は、事もあろうに俺の標的を庇うように立つ。
「何やってんのよ、アンタ……!」
どけ、その台詞は一字一句違わず俺がお前に言いたい。
「アンタ、相当な女好きらしいけど……これは良くないんじゃないの?」
ああ、良くない。実に良くない。あと俺は決して女好きなんかじゃない。
「失礼なことを言うな……大体、お前誰だよ」
「ハァーッ!? 女好きの癖に私の名前知らないってぇの!?」
プルプルと頬を震わせて絶叫する姿は、どこかで見た覚えがあった。
確か始業式から一週間後、身体測定で体重計を壊したと話題になっていた女だ。別に隣のクラスだからそれ以上の興味は湧かず捨て置いたが、隣の席になった日比谷という女子生徒から自分も所属する新聞部なのだと聞いた。実際、その後何度か日比谷と並んで廊下を歩いていた姿を見たような記憶はある。
「待てよ……どっかで見たな、クラスの……日比谷と一緒に」
「そう、それよそれ!」
パアッと顔を輝かせる女。わかりやすい奴というか何というか。
「新聞部のパパラッチ2号か」
「2号じゃねえってえの! せめて1号でしょ! 私は部長よ!」
意外だ。どう考えても日比谷の方が部長に相応しいように見える。
「どうでもいい、とにかくどけ。そいつは──」
「どうでも良くねェーッ!」
売り言葉に買い言葉。俺は窘めようとしているだけなのに、目の前の女の機嫌は悪くなるばかり。これが猫だったらキシャーと全身の毛を逆立てていただろう。女って奴は全く理解できない。
女が標的を抱き起こす。やめろと言う間もない。
「えっ……」
息を呑む女の目の前、標的の姿が変わっていく。正確に言えば、人としての姿が溶けていく。
細身の女子生徒の肉体が内側から溶解し、ツンと鼻を突く醜悪な臭いが周囲に霧散する。
言わばヘドロ、人間としての彼女を形作っていた肉と骨が汚水と廃棄物の混じり合ったそれへと変換され、委員長が同調していた“奴ら”が姿を現した。
・
アキラ、そう呼ばれてる人間に付き従え。
それがヨヨの役目。ヨヨを作った人間にそう言われたからヨヨは今ここにいる。近くの一番高い建物からアキラとさっきヨヨとすれ違った女が言い合ってるのを見下ろしながら、ヨヨは変化を始めたあれに目を向けてみる。
さっきまで叩けば折れそうな人の体だったそれは、汚らしいヘドロの集合体に変わっていた。
「レアモン……せいじゅくきなの」
人間達はデジタルモンスターを“奴ら”なんて呼ぶ。
だけどそれは欺瞞だ。ヨヨはそれを知っている。
人間達はそれを一個の生物群だと認めたくないから“奴ら”なんて呼ぶ。自分達がこの世界の頂点だと、その生は何者にも脅かされるべきではない絶対だと信じているから、その牙城を崩されることを何よりも恐れている。その生物群の一部が世界に溢れただけでも大混乱に陥る脆弱な社会しか築けなかった癖に、まだ自分達が霊長の王だと信じて疑わない。
だけど。
どうでもいい話だ。ヨヨはそんな人間達の手で作られた、アキラの“手”だから。
「ほいっ」
飛ぶ。跳ぶ。翔ぶ。
銀色の髪を靡かせてアキラ達の数メートル後ろに着地、そのままもう一度地面を蹴ると、レアモンの前で立ち尽くしている女の背中に両足を叩き込んだ。
「ごはっ!?」
ヨヨが言うのもあれだけど。
その女から漏れた声は、あまりにも汚らしくて笑ってしまいそう。
もんどり打ってアキラの方に倒れ込んだ女──メメが蹴らなきゃレアモンの攻撃を受けていた──を無視してヨヨは振り下ろされたレアモンの腕を片手で受ける。接触面がプスプスと煙を上げる腐食の力、レアモンは成熟期デジモンの中では決して強い方ではないけど、この世界の人類にとってはまだ生身で太刀打ちできる相手じゃない。
それを知っていたからアキラも、完全に同調される前に仕留めようとしていたはず。
「な、何……!?」
アキラに抱き留められる形になりつつヨヨの方に振り返る女。その目が見る見る驚愕の色に染まっていくのが面白かった。
「アキラ。さくせんへんこうなの」
「……どこ行ってた」
「どっか」
そう答えてガラ空きなレアモンの足下に蹴りを入れる。
それだけで数メートルはあるレアモンの体は吹き飛び、路地裏から駅前の歩道橋の下へと転がり出た。アキラの人払いは完璧じゃなかったからこんな女を巻き込んだ。ヨヨに任せれば駅の周囲1km人っ子一人いなくさせるなんて容易いんだ。いやまあその時、この女とすれ違って逆に人払いの術を認識させてしまったのはヨヨの落ち度なのかもだけどさ。
そんな女が今一度目を見張るのを確認してニヤッと笑い返してやった。
「何なのよ、これぇ!」
見たか、ヨヨの力。
・
超絶美少女新聞記者として、厄介事となれば躊躇わず首を突っ込んできた。
人の恋路にも教頭がヅラかどうかにも先輩が過去にスケバンだったという噂にも、それが面白そうと感じたら決して怯まないのが私だったのに。そんな私は大抵のことには驚かない自信があったのに。
「何なのよ、これぇ!」
それが正直な感想である。
千代田某は僥倖にも抱き留めた私の体なんぞ速攻で放り出して歩道橋の方に走っていった。アスファルトの上を転がって再び「ぐえっ」なんて声を上げる私。
それでもすぐに立ち上がって千代田某を追いかける。何もかも意味がわからないことばかりだけど、きっとあの男がその答えを知っているのは確実だ。いきなり悪臭を放つ怪物に変貌した委員長、それを銃撃していたらしき千代田某、そして私の背中に蹴りを噛ましてくれた銀色の幼女。この数分間に起きた全てに千代田某が関わっていて、更に恐らくそれは東の方で起きた連続行方不明事件と繋がっている。
「待てぇ千代田某-!」
再び駅前通りに出て歩道橋を駆け上る。
すると、人も自転車も車も何も存在しない駅前通りであのヘドロの化け物と千代田某が対峙しているのが見えた。あの男は手にした拳銃を構えてドンドンと躊躇いなく銃撃している──ああ、あのドンって音は銃撃だったんだ──が、どうもヘドロの化け物には殆ど効果が無いように見えた。
空が、紅い。
歩道橋から見上げる赤黒い空は、驚くほど近かった。
「……じゃまなの」
私のすぐ横を通り抜けていく小さな疾風。
すれ違い様に聞こえた声は、可愛らしい女の子のもの。
なのに疾風、そうとしか形容できないぐらいの速さでその影は私のすぐ横を薙いでいった。猛然と駆け抜けていくその後ろ姿は、まるで血の色に染まる空へ挑んでいくかのよう。
「嘘……」
だけど私は息を呑む。
その姿に頼もしさなんて感じない。それを私を助けてくれる正義の味方だなんて微塵も思えない。
だって人間じゃない、そう思わざるを得ないんだ。私の視界には一足で歩道橋の欄干に右足を掛け、五メートルはあろう眼下へと身を踊らせる銀髪の少女。少なくとも私のようなうら若くて可愛くて美しくて、えっと、あと可愛くて、そんな花も恥じらう乙女の普通この上ない17年ちょっとに渡る短い人生の中で、年端も行かない童女がそんなアクション映画顔負けな動きをするなんていう常識はない。
そのはずなのに、それは紛れもなく現実で。
「アキラぁ!」
彼女がトトトと可愛らしく走り寄る先に立つ男の子は私の同級生のはずで。
「……ヨヨ、来い」
彼らが対峙しているのは人の世には有り得ない目を見張るぐらい巨大な怪物で。
「行くぞ」
「りょーかいなの」
それなのに一瞬。彼らは一瞬でその怪物を血祭りに上げていた。
視界が明滅する。意味がわからない、わけがわからない。ここは21世紀の日本で、これは間違いなく現実の出来事なのに、理解が全く及ばない。人間を軽く捻り潰せそうな巨大な怪物と、それに敢然と立ち向かう少年と童女。そんなSFめいた光景が現実なのだと、私は信じることができなかった。
誰よりもそういうことを、何よりもそうしたことを望んできたはずなのに、目の前で起きた出来事を私は無意識の内に否定してしまっていたのね。
「生きてたか、パパラッチ」
気付けば彼が、化け物を一撃で粉砕した男が目の前に立っている。
「さて……何号だったっけか、お前」
どうやってこんな一瞬で私のへたり込む歩道橋に登ってきたのか、そもそも彼が手にする身の丈ほどもある武器は何なのか、そして先程の女の子はどこに行ったのか。
正直、全てがどうでも良かった。
「なんでここにいるのかは知らねーが……」
だから私は、彼の持つ武器がゆっくりと振り上げられるのをぼんやりと見つめていた。
「……こーいうことだ」
鈍色に輝く剣、振り下ろされたそれは程無く私の額を割るらしい。
超絶美少女新聞記者、白昼堂々暗殺されるとか記事になるのかな。
ちょっと待った、私が死んだら来月の学内新聞は誰が書くわけ!?
ああ、意識が目の前の全てから私を置いて逃げようとしているわ。
さっきまで私、今日の晩ご飯は何にするつもりだったっけか──?
・
「……何故あれを千代田隊員に?」
「魔王を打倒できる可能性があるとすれば、あれしかなかろう」
「完成させていたのですね。確かに全てのArmsはZERO-Armsオロチに端を発するものですが、まさかそのプロトタイプを人の形を取らせることで制御するとは……」
「“奴ら”が人を媒介としてこの世に在るのなら、その武器とて例外ではあるまい」
「流石です。……で、伺っても宜しいでしょうか?」
「蛇鉄封神丸、と名付けさせてもらったよ」
【解説】
※登場人物は全員、都内の地下鉄+駅が姓+名の由来。
・大江戸 智代(おおえど ちよ)
主人公。花も恥じらう17歳。名豪高校新聞部部長、自称・超絶美少女新聞記者。よく喋りよく騒ぎよく笑う馬鹿野郎もとい女郎。学年でも話題のとても直線的な肉体美を持つ(超紳士的表現)。
名前は都営地下鉄大江戸線+都庁前駅から。
・日比谷 天馬(ひびや てんま)&日比谷 小町(ひびや こまち)
双子の兄妹で揃って新聞部副部長。学業優秀でパソコンも得意なインドア派な眼鏡が兄の天馬(A組)、運動神経抜群で部長とノリが近い馬鹿が妹の小町(B組)。智代からは“千代田君”“千代田さん”呼び。
名前は東京メトロ日比谷線+小伝馬町駅から。
・有楽町 幸次(ゆうらくちょう こうじ)
B組のイケメン。女子生徒なら誰にでも粉掛けるスポーツ推薦組。その癖に成績もいいらしい許し難い奴。
名前は東京メトロ有楽町線+麴町駅から。
・千代田 公(ちよだ あきら)
B組の編入生。長身でぶっきらぼうな男。正体は“奴ら”を狩る組織の一員。
名前は東京メトロ千代田線+代々木公園駅から。
・ヨヨ
天馬が連れている銀髪の幼女。見た目は6歳ぐらい。蛇鉄封神丸の人間態。
名前は東京メトロ千代田線の代々木上原駅から。
・浅草 馬子(あさくさ まこ)
本作のラスボス。“猫”の依り代であり通称“人かぶり”。本物の超絶美少女であるが、女の生命力を吸って腹を満たす醜悪な怪物。“猫”は言うまでも無くバステモンですが、魔王と呼ばれてたりもするのでその辺はお好みで。
名前は都営浅草線+西馬込駅から。
・銀座 大河(ぎんざ たいが)
故人。上記の馬子の親友で、“人かぶり”となった彼女に殺された。アキラの守れなかった女子。穏やかで優しい少女だったが、見た目が智代によく似ていたらしい。
名前は都営銀座線+虎ノ門駅から。
・“奴ら”
1995年にアグモンと呼ばれる小竜以降、人間を依り代として現れる異世界の怪物を指す。依り代となる条件は精神の同調(agree)と呼ばれているが明確な証拠は無く、前触れも無いまま突発的に起こり得る。一般的には怪物と化してそのまま暴れ、討伐されるだけだが、稀に人間と“奴ら”の姿を使い分けて悪事を働く者もいるという。
小動物を模したアグモン級と猛獣や恐竜を模したグレイト級(俗称:グレイモン級)が存在し、グレイモン級を数体討伐できれば組織の中ではエース級と呼ばれる。それ以上は現時点では確認されていないが、都内に現れた“猫”がそれ以上ではないかと噂されている。
・Arms(あーむず)
組織の一員が用いる武器の呼称。魔剣ズバ、防盾ルド、聖槍スパーダなど数種が存在し、構成員は好みに合わせて使用する。アグモン級には十分な効果があるが、グレイモン級の討伐にはかなりの回数の攻撃を必要とする。なんで銃型のArmsデジモンいねーんだよ。
・Zero-Arms(ぜろあーむず)
Armsの基になったとされる武具。人の手に余る代物であり、それの簡易量産型としてArmsが作られた。
ヨヨの正体である蛇鉄封神丸は、ズバ・ルド・スパーダを作成前にZero-Armsオロチから能力を落とさず開発された試作段階の代物。
【後書き】
完全に思い付きで書き上げました四作目。たまには完全にデジタルワールド(デジタルモンスター)と関わりの無い話を書くのもありかなと思い、このような話になりました。というか、尊敬する然る御方×2の作品をジョグレスしたらこうなってた。
主人公が千代田某ではなく超絶美少女なのは作者の趣味ではなく、何も知らない一般人が出歯亀根性で騒動に関わった方が面白いかなと考えたからという単なる思い付きなのだ!
・