赤松小三郎暗殺時の「斬奸状」ほか

今日は3連休の最終日。このありがたい休日を割り切って幕末三昧にあて、「赤松小三郎」の資料と戯れています。で、昨日、ぜひ皆さんにも読んでいただきたいと思えるような資料に出合いましたので、紹介させていただきます。

幕末期の京都を中心に横行した尊王攘夷派による問答無用のテロがいかなるものであったかを知るための資料ともなります。1863年(文久3)あたりがピークであったテロの嵐ですが、なんと1865〜1868年(慶応年間)に入ってもなお、依然として尊王攘夷、ひいては海外との交易や交流を拡大しようとしている徳川政権の転覆=武力倒幕を叫びながら、性懲りもなく繰り返されていたようなのです。とりわけ、慶応年間に起こったこれから紹介しようと思っている1867年に起きた赤松小三郎暗殺事件と、翌1868年の有無を言わさぬ小栗忠順の斬首事件は、ともに特筆すべき武力討幕を叫ぶ勢力による愚劣極まりない犯罪であったと言って良いように思います。

資料をお読みいただく前に、赤松小三郎は当時どんなことをしていたのか知る必要がありますね。士は差し迫りつつあった国を二分する内乱への危機をなんとか回避すべく、1867年(慶応3)10月14日の大政奉還直前まで、つまりは暗殺される直前までということになりますが、薩摩藩西郷吉之助(隆盛)と幕府重臣永井玄蕃(尚志)の間に入り、「幕薩一和」のための周旋活動をしていたようなのです。それを裏付ける士自身の書状も上田市立博物館に数点残存しています。資料でその書状を読むと、赤松は間も無く「幕薩一和」の策が実りそうだというような心情を(たとえ希望的なものだったのかもしれないとしても)吐露しているのです。ところが、すでにご存知の通り、がむしゃらに武力討幕を急いでいた薩摩藩の中村半次郎(=桐野利秋)ほか数名のテロリストたちによって、いったん故郷の信州上田に戻ろうとしていたところを狙われ、赤松は無慈悲にも1867年(慶応3)9月3日京都で暗殺されてしまうわけです。

下に掲載した写真は、そのテロリストたちが京都三条大橋南側擬宝珠に張り出した「斬奸状」を翌4日に写しとったもの(誰が写書したかは不明)とその翻刻文です。

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                                     元信州上田藩 赤松小三郎

此の者之儀、兼て西洋ヲ旨トシ 皇国之趣意ヲ失ヒ、却テ公ヲ動揺せしめ候儀、不届き之至り捨置くべからざる之多罪ニ付き、今日東銅院五条下ル処ニテ天誅ヲ加ふるニ附き、則ち其の首ヲ取り肆(さら)すべき之処に候え共、昼中ニ附き附き其の儀ヲ能はず、依って此の如く也。

      卯九月三日七ツ時                      有志中

右張紙ニ附其の処承り合せ候処、東銅院通り魚棚下ル町ニて昨三日夕七ツ時、西洋風俗帯刀人日傘ヲ持ち供ヲ召連れ都合二人通行致し候処、何方よりか跡ヲ附け候哉、矢庭ニ切倒シ其の侭立去り申し候。供之者モ同時ニ逃去り候。右赤松幕府御家人之由。

出典は「赤松小三郎 松平忠厚」上田市立博物館

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赤松小三郎暗殺の経緯について粒山樹氏の論考「敬天愛人:桐野利秋①-その虚像と実像-」に詳しく書かれていますので、さっそく引用させて頂きたいと思います。

桐野は、1867年(慶応3)9月1日から同年12月10日までの間、1日も欠かさず日記をつけています。この日記は通称『京在日記』と呼ばれているものですが、この中に桐野が唯一犯した赤松小三郎暗殺の真相が事細かに記述されています。その桐野の日記の文面を紐解くことによって、これから桐野の暗殺事件の真相に迫ってみたいと思います。桐野が赤松を暗殺した当日の日記には次のように書かれています。

同月3日 晴
一、小野清右エ門・田代五郎左エ門・中島建彦・片岡矢之助、僕より同行、東山辺散歩、夫より四条ヲ烏丸通迄帰り掛候処、幕逆賊信州上田藩赤松小三郎、此者 洋学ヲ得候者ニて、去春より御屋敷へ御頼に相成り、今出川、烏丸通西へ入町へ旅宿致し、諸生も肥後・大垣・会津・壬生浪士・内より壱人居弟子、其外ニも諸 藩より入込も多し、然処、此度帰国之暇申出候ニ付、段々探索方ニ及候処、弥幕奸之由分明にて、尤当春も新将軍へ拝謁等も致し、此此も同断之由、慥ニ相分、
(『京在日記 桐野利秋』(田島秀隆編)より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
9月3日 晴れ
一、小野清右衛門、田代五郎左衛門、中島健彦、片岡矢之助と一緒に東山辺りを散歩して、四条烏丸通りまで帰ってきたところ、幕府の逆賊である信州上田藩・ 赤松小三郎と出会った。この者は洋学を学んだ者で、去年の春より我が薩摩藩屋敷に招聘され、今出川烏丸通りを西に入った所に旅宿していたが、その書生には、肥後藩や大垣藩、会津藩、新撰組などから一人ずつ弟子が居り、その他にも諸藩士の出入りも多く存在していた。このような状態の中、今回、赤松から帰国したいとの暇乞いの申し出があったので、色々とその理由を探索したところ、やはり幕府に肩入れする奸佞の者であることが明らかに分かった。また、今年の春には新将軍・徳川慶喜にも拝謁したことがあったので、その疑いはますます確かとなったのである。

このように、桐野は自らの日記の中で、赤松をなぜ斬るに至ったのかの理由を詳しく書き記しています。
つまり、薩摩藩に招聘されていた赤松の身辺に幕府の影が見られ、赤松自身も急に暇乞いを願い出たので、不審に思った結果探索してみると、やはり幕府と相通じていることが明らかになったという理由からです。
また、赤松暗殺の模様についても、桐野は詳しく次のように書き続けています。

折柄今日東銅院四条通西へ入町ニて出合候ニ 付、不可捨置之者ニて、夫より小野・中島・片岡の三士は、烏丸四条南角ニまんぢう屋在り、此の処ニ為待置、田代と僕右赤松の跡ヲ追ひ附候処、四条より東銅 院ヲ伏見之様下り候ニ付、追ひ候処、仏光寺通ニて屋敷者野津七次外ニ弐人在、赤松と相角致し、おひ手を通り、我々は五条下る迄越し、跡へ引返し候処、魚棚 上ル所ニて出合、我前に立ちふさかい、刀を抜候処、短筒に手ヲ掛候得共、左のかたより右のはらへ打通候処、直ニたおるる所ヲ、田代士後よりはろふ、壱余り 歩ミたおる也、直ニ留ヲ打ツ、合て弐ツ刀、田代も合て弐ツ刀にておわる。打果置者也、夫より直ニ引返し、右の三士の居る処まで来る、五士同行ニて帰邸営也
(『京在日記 桐野利秋』(田島秀隆編)より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
ちょうどその時の今日、東洞院四条通りを西に入ったところで、その赤松と遭遇した。赤松はそのまま放っては置けない存在であるので、それより小野・中島・ 片岡君の三人を烏丸四条南角に饅頭屋があったので、そこで待たせて置き、田代君と僕が赤松の後を追った。四条から東洞院通りを伏見の方向に下って追ってい くと、仏光寺通りにて、同藩の野津七次(道貫)ら他二名と会った。二人は「赤松とそこの角で会った」と言ったので、自分達は匂天(おいて)町を通って五条 まで下って先回りし、赤松が歩いている道を後へと戻って引き返した。すると、魚棚を上がった所で赤松と出会った。僕は赤松の前に立ちふさがり、刀を抜いたところ、赤松は短筒(鉄砲)に手をかけようとしたが、左の肩から右の腹にかけて斬りつけたので、すぐに赤松は倒れかかった。そこを田代君が背後から横に斬り払ったので、赤松は一歩ほど歩こうとしたがそのまま倒れた。僕は直に留めを刺し、田代君も留めを刺して、討ち果たしたのである。そこから僕らはすぐに引返し、三人の居る饅頭屋まで戻り、五人で藩邸に戻った。

このように、桐野が書いた日記の記述には、赤松を斬った様子が事細かに描写されています。ただ、文面にある通り、赤松を暗殺したのは桐野だけではありません。同じ薩摩藩士の田代五郎左衛門という人物との共同行為であったことが分かります。
また、饅頭屋で待たされていた三人も、当然この事情は知っていたでしょうから、この赤松暗殺に関しては、薩摩藩士の間では周知の事実であったのでは無いでしょうか。私が推測するに、おそらく赤松の行動に関しては、薩摩藩自体が疑惑を持っており、藩として探索を続け、そして藩として、赤松の暗殺を指令していたと予測することも出来ます。
赤松は一時期は薩摩藩お抱えの軍学者であったので、薩摩藩は内部情報が幕府側に漏れることを危惧し、赤松暗殺の指令を出すに至った。つまり、赤松暗殺に関しては、薩摩藩自体が関与していたのではないでしょうか。その傍証として、元薩摩藩士・市来四郎が編纂した『忠義公史料』には、次のような文書が収められています。

赤松小三郎暗殺セラル
赤松何某トテ、本信州浪人ニテ、砲術ニ達セシモノニテ、此方ヨリ段々門人モ多ク、有名ノモノニ候処、是ハ幕府ヨリ間者之聞ヘ有之、中将公御出立前夜打果候ヨシ
(『鹿児島県史料 忠義公史料第四巻』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
赤松小三郎が暗殺されたとのこと
赤松某は、信州の浪人にて、砲術関係に詳しい者であって、最近は段々と門人も多く、有名の者であった。しかしながら、この赤松は幕府寄りの間者であるということであったので、中将公(久光のこと)が出立された前夜、討ち果たされた模様である。

この文書は誰が書いた物かよく分からないものではありますが、市来が編纂した薩摩藩関係史料の中に含まれているということは、おそらく薩摩藩関係者の誰かが書き記したものであったことは間違いないでしょう。文面を見れば分かりますが、赤松は薩摩藩お抱えの軍学者であったにもかかわらず、「中将公御出立前夜打果候ヨシ(久光公が出立する前夜に討ち果たした模 様)」などという非常に冷ややかな言葉を使っているのを見ても、この赤松の暗殺については、薩摩藩自体の何らかの関与を裏付ける傍証ともなるのではないかと思います。

このように、桐野利秋が唯一犯した赤松小三郎暗殺事件は、桐野の単独犯でも無く、また藩の関与があった可能性も十分に高いものと推測されます。
また、桐野自身が自らの日記に堂々と赤松を斬った事を書き記していることから考えても、この暗殺自体がテロ的な意味合いを持つものではなく、一種の藩の命令を遂行したものであったことを裏付ける傍証ともなるのではないでしょうか。

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粒山樹氏は西郷隆盛や中村半次郎たちの立場、つまりは当時の薩摩藩内武力倒幕派の立ち位置(藩内はむしろ島津久光等の公武合体派が主流であった)から、赤松小三郎暗殺はテロではなかったと書いているわけですが、それにはいかなる意味においても首肯出来るものではありません。ましてや国を二分するような内戦への流れを未然にくいとめようと、薩摩藩(西郷隆盛)と幕府(永井玄蕃)の間に入って周旋活動をしていた赤松を「幕府寄りの間者」と決めつけるなど、そもそも和議には関心が無く、はじめから武力倒幕を優先していたとしか考えられない訳です。異なる言論・思想を有する者を問答無用に抹殺するというのがテロリズムであり、それを実践して憚らない人物をテロリストというわけですから…。

テロリストたちが赤松小三郎を斬った理由に「此の者之儀、兼て西洋ヲ旨トシ 皇国之趣意ヲ失ヒ」という文言があります。この文言を現代のことばで俗っぽく言い換えてしまえば、「あいつは西洋文化にかぶれ、わが皇国の精神性を失ってしまっている」というような意味になるだろうか。だからといって主義主張の異なる人を殺め平然としていられる「尊王攘夷」派のテロリズム=抹殺の論理は実に恐ろしいものです。しかも驚くことに彼らが好んで使う言葉=「皇国之趣意」の語義さえ理解していたとは思えません。彼ら自身、真の意味で「皇国之趣意」を血肉化するところまでは至っていなかったということになります。武力討幕後の安直な欧化主義への変節はそのことを如実に、しかも雄弁に語ってくれます。考えるまでもなく「攘夷」と「欧化」は真逆の思想。要するに彼らのいう「尊王攘夷」など、いつでも都合によって変節できる単なる倒幕の気分を込めた便宜的な表層的な記号=旗印でしかなかったということなんだろうと思われます。赤松を斬った本人たちには、赤松が構想していた極めて高度な日本の近代化プランなど全く理解出来ず、徒に誅殺行為に酔いしれていたとしか考えられないのです。その一つの証拠は後の鹿鳴館にあります。「攘夷」という旗印のもと根拠のない外国人排斥と開明的な人物の誅殺を繰り返していた彼らが、「攘夷」という熱病に飽きると今度は真逆の「欧化」という熱病に浮かれ出しただけだったのです。テロリストたちによって葬られた数多の屍の上にあだ花のように構築された鹿鳴館!そして、髭をたくわえ洋装のいで立ち。それだけでは飽き足らず、胸にこれでもかと言わんばかりの勲章をぶら下げ、煌びやかなシャンデリアの下で踊る元勲と称される男たちの光景は、あたかもブラックユーモア以上の自己矛盾に満ちた砂上の祝祭としか言いようがありません。その意味でも、テロリストたちの遥か先を見据えていた先駆的な思想家・赤松小三郎を殺す理由など、本質論的にはそもそもありえなかったわけです。討幕派には、その後の指針となるさしたる国家ヴィジョンはなく、ただただ悲願としてあり続けていた武力討幕を成し遂げる結果となったわけです。彼らが作り上げたわが国のその後の歩みを振り返ってみても、それは中央集権下で押し進められた富国強兵、ならびに海外拡張路線のもとで遂行された戦争につぐ戦争の政策でした。このわが国の近代化という美名のもとに語られてきた歴史の暗部について、私たちは今こそ冷静に熟考してみる必要があるように思えて仕方がありません。

《参考資料》赤松小三郎の政体論については、当該ブログ2018年9月30日付【赤松小三郎の画期的な政体論】をご覧ください。

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