「くちづけ。(前) #才羽ミドリ」
他人の不幸を願って、
それを喜ぶような人間は──最低だって思ってた。
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ファーストキスに憧れていた。
きっかけは子供の頃に見たドラマか何かだったっけ。
主人公の平凡な女の子が、まるで王子様みたいに素敵な年上の男の人と出逢って、運命的な恋に落ちて。
多くの試練を乗り越えた末に結ばれて、誓いの口づけを交わすハッピーエンド。そんなドラマチックなシーンに心を奪われて。
それからずっと、憧れていた。
くちびるとくちびる。一生を共にしたい大好きな人との愛を確かめ合う神聖な儀式。
いつか私もそんな、とろけるように甘いファーストキスをしてみたいなって。
高校生にもなって、しかも合理性を旨とするミレニアムサイエンススクールの生徒ともあろうものが、そんな少女漫画みたいな空想……なんて笑われちゃうかもしれないけど。
それでも子供の頃からの憧れなんだから仕方ないし、どれだけ大人ぶったって自分の気持ちに嘘は吐けなかった。
──初めて好きな人ができた時、その憧れは夢へと変わった。
ずっと心の奥で思い描いていた夢みたいな理想を、初めて身近に感じられたような気がして。
だから、この気持ちが恋だって自覚した時に決めたんだ。
ファーストキスの相手はこの人とがいい。
私の「初めて」は絶対、この人に捧げるんだって。
そう、疑いもせずに信じてたんだ。
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「あれ、ユウカ?」
ある日の夕方のミレニアムサイエンススクールでのこと。
ここのところの私は……というかゲーム開発部そのものがスランプ気味で、頭の中がずっともやもやしてて、今作っているゲームで使うイラストのアイディアが中々浮かばなくって。
だから、ちょっとした気分転換にって思って、ミレニアムの敷地内を散歩していた時。
遊歩道のベンチに座ってぼうっと夕焼け空を見ているユウカの姿を見つけたから、何の気なしに声を掛けたんだ。
「……あら、ミドリじゃない。こんなところで会うなんて珍しいわね」
私に気付いたユウカはそう言ってにこりと微笑んだ。
……何だか、少しだけ違和感。いつものユウカらしくない。ちょっとだけ無理して笑っているような……
「今日はモモイは一緒じゃないの?」
「まあ、はい。私たちだって四六時中いっしょにいるわけじゃないですから。お姉ちゃんはいつも通り部室でゲームしてます。私は、気分転換にちょっと散歩でもしようかなって」
そうは言ったものの、お姉ちゃん抜きでユウカと話をするのは少し変な気分だ。
いつもはお姉ちゃんと一緒になってユウカのことをからかったりもしてるけど……思い返せば、こうして二人きりでユウカと接する機会なんて、今までほとんど無かったから。
なんだかんだでお姉ちゃんとユウカは仲良しだけど、私は……どうなんだろう?
私にとってユウカって何?って聞かれたら、ちょっと一言では答えられる自信がない。
もちろんユウカのことが嫌いってわけじゃない。
それなり以上に付き合いも長いし、一応は先輩だけど、お姉ちゃんに倣って「ユウカ」って呼び捨てにしてるくらいには気心も知れた間柄。
……なのだけど、それでも敬語が抜けきらないあたり、自分でも微妙な距離感だなって思う。
ただの先輩後輩の関係よりは親しいけれど、ユズちゃんやアリスちゃん、マキちゃんみたいな「友達」っていう呼び方も少し違う気がする。
うーん、改めて考えると、しっくりくる表現が思い浮かばないや。
「ユウカの方こそどうしたんですか? いつもセミナーの仕事で忙しそうにしてるのに、こんなところで何もせずにぼうっとしているなんて。そっちの方が珍しいですよ」
「そう、ね。……私も、ちょっとだけ気分転換、かな」
そう口にするユウカの声には明らかに元気がない。
私と話しているのに、何だか心ここにあらずって感じで……やっぱり何かが変だ。
「……何かあったんですか?」
私の問いかけにユウカは力なく笑う。
少しだけ悲しそうな表情で夕焼け空を眺めながら、ユウカはゆっくりと話し始めた。
「そんなに大したことじゃないのだけど……実は、先生とちょっと喧嘩しちゃって」
「喧嘩、ですか? ユウカが先生と……?」
驚きのあまり聞き返すと、ユウカは苦笑しながら言葉を続けた。
「喧嘩っていうか……私の方から一方的に先生を突き放しちゃったっていうか……それで今、ちょっと気まずくて。どうやって先生に謝ろっかなって考えてたとこ」
ユウカは大したことないように話してるけど、私にはまだ、にわかには信じられなかった。
だって、先生はいつだって私たち生徒のやりたいことを尊重してくれる人で。ユウカだって口では何だかんだ言っててもそんな先生のことが大好きで……
それにユウカと先生は、先生が「先生」としてキヴォトスにやってきたその日からの長い付き合いだ、って聞いてたから。
ユウカは私たちミレニアムの誰よりも先に先生と知り合って、シャーレの当番として先生の仕事を手伝う機会だってミレニアムの中では断トツに多かった。
このキヴォトスの中で先生と一番親しい生徒は誰かって聞かれたら、確実にユウカはそのうちの一人に入ってるって思う。
当然、そんなユウカのことを先生だって信頼していたはずだ。──もしかしたら、他の生徒以上に。
もちろん先生は生徒のことを分け隔てなく扱う人だし……先生と生徒の関係である以上、私たちを「そういう目」で見ることもないって分かってるけど。
それでも。
もしも、万が一。
先生が、生徒の中から一人だけ「特別な相手」を選ぶのだとしたら……私は、先生はユウカのことを選ぶんだろうなって、ずっと思ってた。
……それを自分で認めちゃうのは、少しだけ胸がぎゅってなるけど。
だから、そんな先生とユウカが仲違いするような光景が想像できなくて。
……まあ、先生にちょっと子供っぽくてだらしないところがあるのも事実だし、それでユウカにお小言を言われてるのはいつものことだけど。
ただ……ユウカの深刻な表情を見る限り、今回に限ってはそんないつものじゃれ合いみたいなケンカとは違ってる気がして。
「ほら。私が最近、シャーレの当番のついでに、先生に『ちょっとした相談』に付き合ってもらってるのは知ってるでしょ。……実は、あれをもうやめにしたいって先生に言ったの」
「……え?」
予想だにしていなかった言葉に、一瞬、呼吸を忘れた。
私の顔色が変わったのを見て取ったのだろう、ユウカは慌てて補足する。
「えっと……正確にはやめるんじゃなくて、もう少し頻度を減らしてもいいっていうか……いくら当番とはいえ、ほとんど毎日シャーレに押しかけるのは流石に先生も迷惑かなって思うし。せいぜい月に一、二度か、もっと少なくてもいいかなって……」
まるで言い訳するかのように言葉を並べるユウカだったけど、私の耳にはほとんど入ってこなかった。
だって、そんなの、どう考えたっておかしい。ありえない。
……ユウカは『ちょっとした相談』なんて濁しているけど、実際はそんな軽々しいものじゃない。
『あの事件』以来、男の人に近づくだけで震えが止まらなくなったユウカが、トラウマを克服するためにシャーレの当番って名目で先生やトリニティの人とのセラピーを続けていることくらい私だって知ってるし、お姉ちゃんと一緒にユウカをシャーレまで送り迎えしたことだって一度や二度じゃない。
先生のおかげでほんの少しずつだけどユウカには元気が戻ってきたし、ユウカだっていつも先生を手伝いにシャーレに行くことを楽しみにしていたはずで。
なのに、それを突然打ち切るだなんて──
ユウカが先生に会いにいく機会を自分から手放すだなんて、ただごととは思えなかった。
「やっぱり……先生と何かあったんですね」
もう一度、今度は確信を持ってそう問いかける。
──素直に話してくれるまで逃がさない。そんな決意を言外に込めて。
ユウカはしばらく戸惑ったような顔をしていたけれど……やがて観念したように口を開いて、ぽつり、ぽつりと話し始める。
「……この間、ね。ちょっと私のせいで、先生を困らせちゃって」
この間。
ユウカのその言葉には心当たりがあった。たぶん、一週間前のあの日。
先生から連絡を受けたノア先輩が慌ただしくミレニアムを飛び出して、憔悴しきった様子のユウカを連れて帰ってきた日。
そう。あの日は確か、ユウカが当番終わりにノア先輩にシャーレまで迎えに来てもらうのを断ってたっけ。私はもう一人でも大丈夫だから、って言って。
最近ユウカが少し元気になってきたのは本当だったから、ノア先輩や私たちも強くは止められなくって。もしかしたら本当に、今のユウカなら大丈夫かも、って。
……だけど、その結果は。
「私、立ち直れてるって思ってた。ほんのちょっとずつでも前に進めてるって。このまま先生と一緒に頑張っていけば、いつか元通りの私に戻れるんじゃないかって思ってたんだ。……けど」
ユウカは絞り出すようにして言葉を続ける。そんなユウカの様子があまりにも辛そうで、私は何も言えなくなってしまう。
「……結局、何も変わってなかった。私がつまらない意地を張ったせいでノアやみんなに迷惑をかけて、先生のことだって傷つけちゃった」
……あの日の事の次第は、あとでノア先輩から教えてもらった。
私はもう大丈夫。その言葉を証明するためにユウカが精一杯の勇気を振り絞った挑戦は、たった一歩目を踏み出す前から挫かれて、最悪の形で終わりを迎えた。
ユウカは何も悪くない。もちろん、先生だって。それなのに……現実はどうしようもなく残酷で。ユウカが理不尽に突き落とされた地獄から、簡単に這い上がることさえ許してくれなくって。
「別に、克服することを諦めたわけじゃないわよ。ただ……相談のたびに先生にあんな苦しそうな顔をさせるのは、もう嫌だから。だからもう少し先生に迷惑をかけない方法を考えてみようかなって。ただ、それだけ」
それだけ、じゃない。そんなはずない。
だって、なんてことないように言ってるけど……ユウカの言葉から、表情から、その端々から、本当は先生と離れたくないって想いが溢れ出ている。
そんなこと、本当はユウカだって望んでないはずなのに。
「……まあ、そう先生に話したら必死で止められちゃったんだけど。……今にして思えば、あれだけ心配かけちゃったんだから当然よね。あはは……」
ユウカは力無く乾いた笑いを漏らした。
そんなユウカのことが居た堪れなくて、見てられなくて、たまらず問いかける。
「ユウカは本当に……それでいいんですか?」
「……だって、シャーレの先生は私だけの専有物じゃないもの。いつまでも私のことだけに掛かりきりにさせるわけにもいかない。そんなの先生だって迷惑だろうし……」
……うそつき。
私には分かる。ユウカがそんな殊勝なことを本気で思ってるわけないもん。
だって、私の知っているユウカは、先生と顔を合わせるたびに顔をほころばせて。仕事の忙しさよりも、先生に会えない時間の方を惜しむような女の子で。
頑張り屋で、意地っ張りで、セミナーの仕事がどれだけ忙しくてもどうにか時間を作って、シャーレの当番は絶対に休まなかった。
ユウカがそこまで先生のために頑張る理由……本人は絶対に認めようとはしなかったけど、そんなのミレニアムの生徒だったらみんな、とっくに気が付いてる。
だって、ユウカは先生のことが大好きだから。
ユウカが先生に対して、ただの親愛以上の好意を……はっきりとした恋心を抱いていることなんて、ミレニアムの生徒なら誰だって知ってることだった。
……いや、もしかしたらユウカ本人的には隠しているつもりなのかもしれないけど。ぶっちゃけ先生への態度を見ていればユウカの気持ちなんてバレバレで。
同じセミナーのノア先輩なんて、そのことをネタにいつもユウカのことをからかってるくらいだ。
ユウカがずっと先生のことを助けてきたのも、誰よりも多くシャーレの当番を買って出ていたのだって、きっと好きな人とほんの少しでも長く触れ合いたいって気持ちがあったから。
……もちろん、いくら先生に会いたいからって真面目なユウカがセミナーの仕事に手を抜くことなんて無かったし、そんなユウカに文句をつけられる人なんて誰もいない。
自分のやるべきことを全部こなして、焼かなくてもいい他人の世話まで焼いて、その上で先生のお仕事まで手伝って──
本当に、敵わないなって思ってた。
「そもそも、今までの方がおかしかったのよね。毎週のようにシャーレに押しかけて、本来の当番の仕事でも何でもない書類の整理やプライベートでのお小遣いの管理まで買って出るなんて、そんなの不健全だし……うん。先生との距離感を見つめ直すにはいい機会だったのかも」
なんでもないことのように……でも、今にも泣き出してしまいそうな表情で、ユウカは空っぽの言葉を吐き出していく。
まるで、自分に言い聞かせるように。自分で自分の首を絞めるように。
「結局のところ、私たちはただの先生と生徒の関係で……それ以上でも以下でもないんだから」
絞り出すようなユウカの声を聞いて、その時やっと分かった。……分かってしまった。
ユウカは。
この人は、
先生のことを、諦めようとしているんだ。
∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴
「なに、これ?」
ユウカの──ううん。私たちミレニアムの皆の、何もかもが変わってしまった「あの日」。
その日はなんてことのない平凡な一日で、いつもみたいに部室でみんなとゲームして、だらだらとした時間を過ごしていた。
……何の前触れもなしに、私たちのパソコンのメールボックスに「それ」が送られくるまでは。
届いたのは一通の電子メール。
件名は「【閲覧注意】㊙あのセミナーの冷酷な算術使いの淫靡な本性を徹底暴露!!!!【拡散希望】」とか、どうしようもなく下世話なもので。
……まあ、どう見てもスパムメールの類だったけど。最初はまたマキちゃんあたりがユウカをからかうために仕掛けたイタズラかなって思って。
お姉ちゃんが面白がってみんなを集めて、軽い気持ちでリンクを開いたんだ。
……でも実態は、そんな可愛げのあるイタズラとはかけ離れてて。
私がその映像を直接見たのは、初めのほんの数十秒にも満たない時間。だけど、それだけでもう……吐き気が込み上げてきた。
その、映像の中では。
ユウカが。
私たちがよく知ってる、昨日までいつも通りに笑っていたはずの、あのユウカが。
ぐちゃぐちゃにされてた。
『──■■■■■■。■■■、■■■■■■■■■!? ■■■、■■■■■!!!!』
なに、これ。
脳が理解を拒んでいた。
頭の中が混乱でいっぱいになる。
出来の悪いフェイク映像? それとも悪夢でも見ているの?
これをやったのは誰? マキちゃん? ヴェリタス? ……ううん。いくらイタズラ好きなあの子たちだって、ユウカにこんな度が過ぎたことするわけない。
……そもそも、いま私たちが見ている映像に映ってるのは、本当に私たちの知ってるユウカなの?
だって、ユウカはミレニアムの誰もが恐れる冷酷な算術使いで。いつでも私たちを厳しくも優しく見守ってくれるお母さんみたいな人で。そんなユウカのことが私たちはみんな、大好きで……
なのに、画面の中のユウカには、普段の勝気さなんて欠片も残ってなくて。
拘束され、押さえつけられ、逃げ出すことも抵抗することもできずに、されるがままになって……
焦点の合ってない光の消えた瞳で、涙と鼻水に塗れたユウカの泣き顔がディスプレイに大写しにされて、それで──
「……して」
「お、ねえちゃ……?」
「消してッ!! 早く!!!!」
お姉ちゃんの叫び声と、ダダダダダッ!って銃声が響いて、目の前のディスプレイが文字通り吹き飛んで……ようやく我に返った。
振り返ると、愛銃のユニーク・アイディアを構えたお姉ちゃんが真っ青な顔で立っていて。
ユズちゃんはがたがたと震えながら口元を押さえてて、アリスちゃんは何か理解できないものを見たみたいにフリーズしたまま、ぽろぽろと涙を零し続けていて。
誰も……私も、一言も喋れなかった。
それから、いてもたってもいられなくなってセミナーに駆け込んで……
そこでノア先輩から、ユウカが何者かに誘拐されて今も行方不明なこと、私たちが見たあの動画が、ミレニアムの全校生徒のPCやスマホに今もリアルタイムで配信され続けてることを聞かされた。
……私たちが見たあれは何かの冗談でもフィクションでもない、現在進行形でユウカの身に起こっていることなんだって現実を突き付けられて。
吐き気がした。
それからすぐにノア先輩に緊急で呼び出された先生がやってきて、セミナーやヴェリタス、C&Cも集まってユウカを助け出すための作戦会議が開かれて……
……その間、私たちゲーム開発部は、何もできなかった。
だって、それはそうだよね。
C&Cやヴェリタスとは違って、元々私たちは戦闘のプロでもなんでもない、ただのゲームオタクの集まりでしかないんだから。
ユウカを助けるのに何の力にもなれないどころか、むしろ足手まといで。
それに……こんな汚らわしいことに、アリスちゃんをこれ以上関わらせたくなかったから。
だから私たちは、作戦会議にも加われずに部室に戻って……先生やネル先輩たちがユウカのことを助け出すまで、ただユウカの無事を祈ってることしかできなかった。
ユウカに会えたのは、先生たちの手でユウカが救出されてから数日後。ミレニアムの病院に緊急入院したユウカに面会の許可が下りた日。
先生といっしょにユウカの個室に通されて……一目見て、それが本当に私の知ってるユウカなのかって目を疑った。
数日ぶりに再会したユウカは、ぽっかりと虚ろな目をしてベッドの上で縮こまっていて。
すっぽりと毛布に包まって、個室の中はエアコンが効いてるはずなのに、猛吹雪の中にでもいるみたいにがたがたと震えてた。
まるで、壊れかけのゲーム機みたいで。ほんのちょっとでも刺激を与えたら壊れてしまいそうで。
そんなユウカに、私は……ユズちゃんやアリスちゃんも、声を掛けることすらできなくて。何をしていいのか分からなくって。
だけど、そんな時でもお姉ちゃんだけはいつも通りだった。
真っ先にユウカに駆け寄って、何も言わずにユウカの手を取って、ぎゅって握って。
そのままユウカを抱きしめて……ユウカの背中を、ぽんぽんってさすってあげて。
……いつも、落ち込んでいる時の私がそうして貰っているみたいに。
「──だいじょうぶだよ、もう、怖くないよ。私たちがいるから。もう、安心だからね」
……お姉ちゃんだって泣きそうな顔してたのに、それでも優しい笑顔で、しっかりとユウカの目を見て笑いかけて。
そしたらユウカの目にもほんの少しだけ光が戻って。そのまま、ぽろぽろって涙を流して……うわああああん、うわあああんって、生まれたての赤ちゃんみたいに泣き出して。
その時になってようやく、私たちもユウカに何をしてあげたらいいのか分かったんだ。
お姉ちゃんと同じようにユウカに駆け寄って、みんなでユウカのことを抱きしめて、それからユウカといっしょに、みんなでわんわんって思いっきり泣いた。
ユウカの心の澱を、ほんの少しだけでも洗い流せるように。
∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴
あの頃と比べれば、ユウカはずいぶんと元気になったように見える。
少なくとも普通に日常生活を送る分にはほとんど問題ないし、前みたいに笑顔を見せてくれるようにもなった。
だけど、それでも全てが完全に元に戻ったわけじゃない。
……当たり前だ。あんな酷いことをされたのに、そう簡単に何もかも忘れて立ち直れるなんて、絶対できっこない。
「最近は私もずっと先生に頼りきりだったし、そろそろ先生離れしなくちゃ、ね……」
口ではそんな風に言いつつも、ユウカは落ち着かなさげに口元を手で撫でていた。
……その様子にまた、少しだけ違和感を覚える。
やっぱり、私の知ってる「あの日までの」ユウカとは、何かが決定的に違ってる気がして。
心の中に広がるもやっとした気持ちの正体を知りたくて、しばらくユウカの顔を見つめていて……
唐突に、その違和感の正体に気付いた。
ああ、そうだ。
ユウカのくちびる。
あの日からユウカは、一度もリップをつけてないんだ。
セミナーの会計なんてやってるからお堅いイメージがあるユウカだけど、実は結構なお洒落さんだ。
あんまり派手めなお化粧を好むタイプじゃなかったけど、だからこそぱっと見たくらいじゃ分からない程度のナチュラルメイクに拘ってて。
そういうのが逆に大人っぽくて、ちょっと憧れてた。
特に、あの事件が起こる前までのユウカは、先生と会う日にはいつも必ず色つきリップをつけてたっけ。
そうと言われなきゃ気付かないくらいに、だけど無意識にくちびるの赤みに目を惹かれちゃうようなさりげないアピール。
今にして思えば、それはひょっとしたら……ユウカの、先生とキスしたいって密かな願望の現れ、だったのかも。
……ただ、今のユウカのメイクは昔とは明らかに趣が違う。
メイク自体はしてるけど……その目的は人の目を惹くことじゃなくて、逆に目立たなくすること。あえて地味っぽい感じにしてる気がする。
それに……ほんのちょっと気を付けて観察すれば。目元のクマを隠したり、疲れ切った顔色を少しでも元気そうに見せかけたり……無理してるのを必死でバレないようにしようとしてるのが丸分かりで。
……あの日から変わったのはメイクだけじゃなくて、服装だってそう。
ベンチに座り込んだユウカの、黒いタイツに覆われた両脚を視界に捉えて……ズキリと胸が痛む。
お姉ちゃんやマキちゃんはよく太ももが太いだの体重100kgだのって揶揄ってたけど……私は正直、ユウカのスタイルが羨ましかった。
すらっとしていて、それでいてほどよく肉付いた健康的な太ももとふくらはぎ。染み一つない白くて綺麗な素肌。どれをとっても私なんかとは大違いで。
どうしたら私もユウカみたいになれるんだろう、なんていつも思ってたっけ。
だけど、そんなユウカの脚線美も今は分厚いタイツの生地に覆い隠されていて。
これはこれで大人の女性って感じがして魅力的だとも思うけど……ユウカがこうしてタイツを穿くようになったのはあの事件の直後から。
その理由を考えると、どうしたって痛々しさの方が先に来てしまう。
本当は分かってた。
あの日から、ユウカは全然立ち直れてなんかいない。
ただ必死に立ち直ったフリをしているだけ。
そんなふうに必死で強がってるだけのユウカを……正直、見ていられなかった。
「……えっとさ、ミドリ」
ふいに、ユウカが私の名前を呼んだ。その声色にはどこか申し訳なさが漂っていて。
「ものは相談なんだけど……私が行くはずだった今月のシャーレの当番、ゲーム開発部の子たちに替わって貰えないかしら? もちろん無理を言ってるのは分かってるし、ちゃんとそれなりの埋め合わせもするから……」
「……え」
驚きのあまり、咄嗟に言葉が出なかった。
……それは「あの日」までのユウカだったら絶対にしないような提案で。
まるで大切な宝物を、自分から手放してしまおうとしているみたいに見えて。
私は息が詰まるような思いだった。
こんなの私が知ってるユウカじゃない。
ユウカはいつだって先生のことが大好きで、セミナーの仕事も、先生との時間も、どっちかを諦めるようなことなんて絶対にしなくって。
だから……胸がズキズキと痛んだ。そんなの駄目だって、諦めないでって言いたかった。
……だけど。
それと同時に……心の中のドライな部分が、私にこう囁いてくるんだ。
ひょっとしたら、これは「チャンス」なんじゃないか、って──
「──ダメです!」
頭の中に響く囁きを掻き消すように、気がづいた時には大声でそう叫んでいた。
私がそこまで声を荒げたのが予想外だったのか、ユウカはびっくりした様子を見せる。
「だ、ダメって、なんで……」
「ダメなものはダメなんです! ユウカの馬鹿! どうしてそんな心にもないこと言うんですか!?」
理由なんて自分だって分からない。ただ納得できなかった。まるで子供の癇癪。
でも……一度動き出した口は止まってくれない。心の底から湧き上がるもやもやとした気持ちに任せるまま、私は思いっきりユウカに捲し立てる。
「だいたい、あの先生がユウカのために何かすることを迷惑だなんて思うわけないじゃないですか! むしろ、先生だったら生徒の力になってあげられないことの方をよっぽど後悔するはずだって……先生がそういう人だって、私なんかよりユウカの方がよく知ってるはずでしょう!?」
「……それは、そうかもしれないけど……何で、ミドリがそこまでムキになるのよ……?」
あくまで煮え切らないユウカの態度に、段々と怒りが込み上げてきて。
沸々と煮えたぎる感情のままに、私は──後戻りのできない決定的な一言を口にしてしまう。
「だって! だってユウカは……ユウカだって私と同じで、先生のことが好きなんでしょう!?」
「──っ!」
今までひた隠しにていた──少なくとも本人はそう思っていた──本心を指摘されたユウカが大きく目を見開く。あからさまに動揺して……そして、怯えていた。
……言ってしまった。もう、後戻りはできない。
激情のままに私の口は勢いを増して、今まで溜め込んできた想いの丈を吐き出していく。
「な、なに、言ってるの。私は別に、先生のこと、そういう風に思ってなんて……」
「今更とぼけないでください! ユウカと先生はあんなに仲良かったのに! ……私から見ても、お似合いだって思ってたのに……それなのに、こんなことで諦めちゃうんですか!?」
「……ミドリ……? ちょっと……落ち着いて……」
ユウカの静止の言葉ももう耳に入らなかった。
自分でも自分の感情がコントロールできない。心の中の黒いモヤモヤがどんどん溢れていって、私の口をついて言葉になって飛び出していく。
「ユウカの先生への気持ちってその程度だったんですか!? あれだけ先生に振り向いてほしくて頑張ってたのに、ちょっと辛いことがあったからって何もかもおじゃんにするなんて、私だったら絶対そんなことしない! そんな中途半端な想いだったなら、最初から──」
──ああ。きっと今、私はユウカに酷いことを言ってるんだと思う。
その自覚くらいはあった。……それでも止められなかった。
本当はこんなことを伝えたかったわけじゃないのに。
だけど、あの日からずっと感じていた心のもやもやを。誰に対してのものなのかすら分からない怒りを、憤りを、全部ぶちまけてしまいたくて。
罵るような、責めるような言葉ばかりを捲し立てて、感情のままにユウカにぶつけて──
「あなたに何が分かるの」
──たった一言で、正気に戻された。
「……ぁ」
無機質な冷たい声に、否応なしに我に返って。
はっとしてユウカの顔を見ると、そこにあったのは……何の光も宿っていない、ぞっとするような昏く冷たい瞳。
「あなたに。ミドリなんかに。私の、なにが」
──それはまるで、「あの日」のユウカみたいな目。
私を正面から睨め付けるその絶対零度の瞳の奥には、ユウカが今までずっと自分の内側に閉じ込めていたドス黒い感情が炎のように揺らめいていた。
そんな目を向けられてしまったら……ただそれだけで、私はもう、何も言えなくて。
ただユウカの次の言葉を、死刑宣告を待つ罪人みたいに黙って待っていることしかできなくって。
そんな私に、ユウカは──
──パン、と。
乾いた音が響いた。
頬を叩いた音。──ユウカが自分で、自分の頬を。
「……ごめん」
……結局、ユウカの口から零れたのは、そんな申し訳なさそうな言葉。
そのままユウカは両手で顔を覆って俯いてしまった。タイツに覆われた太腿に、顔を覆う掌の隙間から涙の雫がぽたぽたと零れ落ちていく。
「ごめん、ね。こんなこと、あなたに言うつもりじゃ、なかったのに。……ごめん」
……ユウカは強がってた。今まで、ずっと。
だけど強がり続けるのにだって当然限界はあって。一度決壊してしまったら、もう止められない。
さめざめと泣きじゃくるユウカを前に……私は、また何もできなくって。
……怖かった。
ユウカが必死に外に漏らさないようにしていた、どす黒い負の感情。
そのほんのひとかけらを目の当たりにしただけで、もう震えが止まらなかった。
でも、何よりも辛いのは……
私のせいで、ユウカを傷つけてしまったこと。
ああ、結局、あの日と同じ。
目の前で震えて苦しんでいるユウカのことを、私はまた、ただ見ていることしかできなくって──
──違う!
……あの日と同じでいいわけない。あの日の私は、お姉ちゃんがいないと何もできなかった。
だけど、今は。
どうすればいいか分かってるから。お姉ちゃんが教えてくれたから。
一歩踏み出す。
ゆっくりとユウカに近づいて、手を伸ばして、そして──
──ぎゅっと、ユウカのことを抱きしめた。
「みど……り?」
「……ごめんなさい」
……こういうとき、お姉ちゃんほど上手くできるかどうかは分からないけど。
それでも、今ここにいるのは……お姉ちゃんじゃなくて、私だから。
「ごめんなさい。私の方こそ、ごめんなさい。ユウカの気持ち……ぜんぜん考えてなかった……ごめん、なさい」
心を込めて、ユウカに謝る。
私なんかの薄っぺらい言葉が、今のユウカの心にどこまで届くのかなんて、分からないけど。
「それでも……ユウカが一人で抱え込んで苦しんでるのは……もう、見てられないんです」
だけど。
ユウカのために何かしてあげたい。
そう思ってるのは何も、先生だけじゃなくって。
お姉ちゃんだって、ユズちゃんやアリスちゃんだって……もちろん、私だって。
そのことを、ユウカに伝えたくって。知ってほしくて。
「こんな私なんかじゃ、全然頼りないのかもしれないけど……それでも……ちょっとは話してくれたって、頼ってくれたって、いいじゃない、ですか……!」
……気づいたら、私も泣いていた。
ユウカがあの日からどれだけ苦しんできたのか、どんな気持ちで今まで過ごしてきたのか……それをこれっぽっちも分かってあげられない自分が悔しくって。
涙が込み上げてきて。溢れてきて。止まらなくって。
「……優しいね、ミドリは」
ぎゅう、と。温かい手が私を抱きしめる。
「ありがとう。私のこと、心配してくれて」
優しい声。
まるでお母さんみたい。
……やっぱりお姉ちゃんみたいには上手くいかない。これじゃ、どっちがどっちを慰めてるのか分かったもんじゃない。
だけど……それでも。
ほんの少しだけ、ユウカの心に触れられた気がして。
それから、しばらくの間。
私もユウカも一言も口にしないまま……ただ抱き合って、泣き合っていた。
∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴
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