業とベビ帝

「ぬい~」
 間の抜けた声とともにぺちぺちと額を叩かれ、渋々と目を開けた。途端目を焼いたのはカーテンの隙間から差し込む日差しで、鼻腔を擽ったのは焼きたてのパンの匂いだった。あまりにも現実離れしすぎていて意味が分からない。一体ここはどこで、何があったんだと混乱する頭を抱え、俺はぐっと奥歯を噛み締めた。
 これは夢だ。だって俺はたった今ユフィを殺し、そのはらわたを引き摺り出してから彼女の騎士である証の剣で細い首を切り落とした。ごろりと転がったそれはシルバーの盆に載せて主へと献上しなければならない。長い桃色の髪を掴み上げ、盆に載せ――。
「ぐ、うッ」
 吐き気が込み上げる。そこに立ち込めていたのは血腥い死の匂いで、崩壊した建物からは腐肉の焼ける匂いしかしていなかった。記憶と現実の齟齬に目眩がする。それとも俺はまだ夢を見ているだけなのだろうか。
「ぬい! ぬ~い~!」
 ぺしり、とまた額に柔らかなものが打ち付けられる。は、とようやく息を吸うことを思い出し、肺に酸素を取り込んだ。徐々に頭がクリアになる。そうだ、ここはあの地獄でも、フィンブルの冬でもない。また違うどこかの、平和な世界の一角だ。
「……ベビ帝、か」
「ぬっ!」
 俺を起こしに来てくれたらしいベビ帝が、枕元でくるりと一回転する。今日は恐竜を模した緑の服というか着ぐるみを着たベビ帝が「どうだ、似合うだろう」とでも言いたげなドヤ顔で俺を見下ろした。
「……それはルルーシュの新作か?」
「ぬい」
「そうか……よく似合っている」
「ぬっぬっ!」
 褒めてやるとベビ帝は嬉しそうに手足を動かし、得意げにポーズを決めた。見た目はぬいぐるみになったルルーシュそのものだが、中身は幼稚園児か小学校低学年にしか思えない。そういう純粋さに絆されてしまったのは否めないところだ。こいつのおかげで救われた部分もたくさんある。
「ぬい!」
「ん? ルルーシュがパンを焼いてるって?」
「ぬいぬい!」
「あんぱん? お前、あんぱんが好きなのか」
「ぬーっ!」
「いや、俺は甘い物はあまり好きじゃない」
「ぬぃ……」
 これで会話が成立しているのが自分でも不思議だが、ベビ帝の言葉は何となく理解が出来る。何よりベビ帝が俺に伝えようと一所懸命だから、自然と俺も意図を読み取るためちゃんと向き合うようになってしまった。
「俺の分のあんぱんはお前にやる。ルルーシュもそのつもりであんぱんを焼いているんだと思うぞ」
「ぬー?」
「嘘じゃない、本当だ」
 ベビ帝を左手の上に乗せると、起き上がってベッドを降りる。ぺたぺたと素足でフローリングを歩き、ダイニングに続く扉を開ければ、対面カウンターの向こう側でルルーシュが焼きたてパンがたくさん並んだ天板をオーブンから取り出しているのが見えた。どうやら夢の中で嗅いでいた匂いの元はこれらしい。
 知らない間に色々と焼いたらしく、カウンターの上にある籐のパン籠には、いかにも歯ごたえがサクサクとしそうなクロワッサンと、クープが綺麗に入ったバゲットが入っている。コンロの上にあるのはスープだろうか。あいつにしては珍しく機嫌がいいようだ。
「ぬーい!」
 焼き立てのあんぱんを籐籠に移しているルルーシュに向かって、ベビ帝がぶんぶんと小さな手を振り回して呼びかけた。
「ご苦労だったな、ベビ帝。スザクは座っていてくれ。もうすぐスープも出来上がるから」
「どういう風の吹き回しだ?」
「たまにはいいだろ、こういうのも。なあベビ帝?」
「ぬーいぬーい!」
 左目に掛かる長い前髪を小指で払い、ルルーシュは意味深な笑みを浮かべて見せた。長い睫毛と、消えなかった深い傷痕。俺が抉り取った左目が元に戻ることはなく、眼窩が落ち窪まないようシリコン製のボールが入っている。左目の欠損はあのルルーシュが確かに俺のルルーシュでもある証拠だった。
 フィンブルの冬という世界に飛ばされ、そして元の世界にも戻れず仕舞いだった俺たちは、紆余曲折を経て元の世界でもフィンブルの冬でもない世界に放り出された。どんな世界に流れ着こうと、こいつを殺し俺も死ねば全てが終わる。だがそうしようと剣を振りかぶったとき、べしょべしょに泣いているベビ帝が「ぬぃぃぃー!」と立ち塞がったときの俺の気持ちを原稿用紙四百文字一枚以内に収めて提出して欲しいくらいだった。
 結局ベビ帝の前ではルルーシュを殺せず、なし崩しで二人と一体の生活がスタートした。戦争など起こらなければ日本もこんな国だったのだろうと思わせる世界。そこでの生活はあまりにも平和で、人殺しの俺には少々居心地が悪い。ルルーシュも恐らくそうだったのだろう。たびたび風呂場で手首を切っては自殺を図るようになり、左目の傷以外にも左手首に無数の切り傷が刻まれることとなった。
 だが今日はどうやら落ち着いているようだ。朝から活動的なルルーシュを見るのは久しぶりで、今度は俺の方が調子が狂ってしまう。言われたとおり椅子に座り待っていると、ルルーシュがコーンスープを、ベビ帝がパン籠をずるずるとひきずってやって来た。俺にとっては軽いパン籠も、ベビ帝のサイズからすればその運搬作業はとてつもない大仕事だ。ぬいぬい鳴きながら何とかテーブルのセンターに籠を置くと、短い右腕を誇らしげに天に向かって突き上げた。
「ぬいー!」
「よくやったなベビ帝」
「珍しく張り切ってたな。何かあったのか?」
 俺とルルーシュに褒められたベビ帝はしばらく大きな目をキラキラとさせていたが、俺たちの問いに首を横に振ると定位置である俺の傍へととてとて歩いてきた。足を前に投げ出し、ちょこんと座る姿はぬいぐるみそのもの。なのに俺たちと意思を疎通させて自ら動くのだから、フィンブルの冬以上に謎の存在と言っても過言ではない。
「ベビ帝、あんぱん食べるだろう? ほら、俺と半分こだ」
「ぬいぬ!」
 ルルーシュが半分に割ったあんぱんを受け取り、ベビ帝がいそいそとパンを囓り始める。全身で抱え込んでいる格好は愛らしく、小動物を見ているような気持ちになる。それを見届けてから俺もクロワッサンに手を伸ばし、さくさくのそれに齧り付いた。美味しい。奴隷だった頃には感じなかった、食べるという喜びに身体が竦みそうになる。俺は生きていてはいけない人間で、ルルーシュも同じで、なのにこの世界で俺たちはずっと息をし続けている。
「ぬいぃ……」
 ベビ帝が幸せそうにパンを食べては感嘆の息を漏らしている。もし俺たちが死を選べば、ベビ帝も同じ道をいくだろう。そんなことをさせるわけにはいかない。俺には誰も幸せにする資格はないが、ベビ帝にだけはたった一欠片の悲しみも与えたくはないのだ。
「美味しいか? ベビ帝」
「ぬーい!」
 どうやらルルーシュも同じ気持ちらしく、口の周りを食べかすだらけにしてパンを食べているベビ帝を微笑みながら眺めている。ここには死臭もなく、血の臭いすらない。誰も死なず、平和に生きている。そしてルルーシュも何とか死の誘惑に抗い生きようとしている。俺もまた彼を殺す衝動を何とか殺し、のうのうと生きている。俺たちは腹が立つほど同じ生き物でしかない。
 ルルーシュは俺の視線に気付くと赤い唇を綻ばせた。それは俺を奴隷にして虐殺の限りを尽くした男とは思えない、優しい笑顔だった。

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